フェデリコ親父とサクラの木
2008/10/21
Cenizas del Cielo
2008年,スペイン,95分
- 監督
- ホセ・アントニオ・キロス
- 脚本
- ホセ・アントニオ・キロス
- 撮影
- アルバロ・グティエレス
- 音楽
- ラモン・プラダ
- 出演
- セルソ・ブハッリョ
- クララ・セグーラ
- ゲイリー・ピケル
- フラン・セリエゴ
旅行ライターのファーガソンは取材旅行の途中、車の故障で田舎町に足止めされてしまう。そこで牛の出産に偶然立会い、フェデリコと出会う。フェデリコはその地に建つ火力発電所の操業停止を求めて30年以上も活動を続けていた。
火力発電所と環境問題をエピソードに盛り込んだヒューマン・コメディ。おかしさの中にまじめなテーマが潜む好作品。
ロードムービー(というより、移動できなくなってしまっているので“足止めムービー”とでもいうべきか)と環境、なかなか出会いそうもない二つのジャンルがここで出会う。田舎町で車が故障して足止めを食うというのはロードムービーにはよくあるシチュエーションだ。最初は田舎町のゆっくりとしたペースやいい加減さにいらいらするが、そこに住む人々と触れ合うことで少しずつ馴染み、最後には離れられなくなる。
根は優しい頑固親父、腕白だが純粋な子供、もうろくした爺さん、別れが見えているのに引き込まれてしまう情事、これらはこのような“足止めムービー”に頻繁に登場する要素であり、それがこの作品にもしっかりと登場するわけだ。
環境のほうでは、大気汚染、酸性雨、土地汚染、生殖機能の減退、役人的怠慢、偽装、反対運動、住民の対立といったテーマが表れては消える。
この作品は、ドラマと環境の両方の要素を一本の映画に見事に収めきった。これを見て私が思ったのは「環境をテーマにしてこのようなドラマが撮られるようになったのか」ということだ。このような旅行者が地方の人々とふれあい、交流し、そこに存在する問題を解決するという映画は“停止ムービー”に限らず数多くあった。そのとき解決される問題は、恋愛であったり、思春期の悩みであったり、貧困であったりするわけだが、外部からいい変化をもたらすという点が共通してる。
この作品はその問題が環境となったわけで、そこに時代を感じる。そしてしっかりと作品として成り立っている。成り立っているというのは主人公である外部からやってきた人間が魔法のように問題を解決するという意味ではなく、その問題が私たちの現実にも反映しうる形で展開されているということだ。環境問題の解決は一筋縄ではいかない。明確な形では目に見えない危機(野菜の不作や不妊では汚染を一元的な原因とは言い切れない)は人々の反応を鈍らせるのに対して、目に見える形での不都合(停電)は人々を即座に行動に駆り立てる。この町で問題なのはフェデリコ親父だけが明確な形で危機を経験しているということだ。町の人々はそれを共有できないがために、その危機から目をそむけ続けることができてしまうのだ。
スコットはあくまでよそ者だから、住人たちが眼を背ける理由を共有していない。停電は彼にとってはちょっと不便なだけだが、住民にとっては死活問題だ。その点でフェデリコとスコットには共通点があり、共闘が可能になる。そしてスコットと同じようによそ者である私たち観客にも危機の存在は明確なのだ。その問題が明確化されない構造こそに問題があるのだということをこの作品は指摘する。
そして、それが比較的穏やかなドラマの中で示される。それがこの作品の非常に優れた点だと思う。