ぜんぶ、フィデルのせい
2008/11/19
La Faute a Fidel!
2006年,イタリア=フランス,99分
- 監督
- ジュリー・ガヴラス
- 原作
- ソミティッラ・カラマイ
- 脚本
- ジュリー・ガヴラス
- 撮影
- ナタリー・デュラン
- 音楽
- アルマンド・アマール
- 出演
- ニナ・ケルヴェル
- ジュリー・ドパルデュー
- ステファノ・アコルシ
- バンジャマン・フイエ
1970年のパリ、9歳のアンナはカトリック学校に通い、スペイン出身の父フェルナンドと雑誌記者の母マリー、弟のフランソワとお手伝いさんのいる何不自由ない生活を送っていた。しかしある日、スペインで反政府活動家だった伯父が死に、伯母といとこが家にやってくる。そのことからフェルナンドとマリーは共産主義に目覚め、アンナの生活は一変、不便な生活を強いられる…
社会情勢が不安定だった1970年代初頭のパリを少女の目から見たヒューマンドラマ。
名門のカトリック系小学校(女子校)に通い、お手伝いさんがいるようなブルジョワの生活を送っていた少女が、両親が共産主義に目覚めたことで宗教の授業に出ることを禁じられ、家も小さいアパートに引っ越し、お手伝いさんも代わってしまい、両親は留守がちになり、家にはいつも知らない人たちが集まっているという生活を強いられる。
それまでの生活の快適さ、そして級友たちから仲間はずれにされているような感じがから、アンナは両親に反感を覚え、それをフィデル・カストロのせいにする。アンナはこれまでどおりに暮らそうとするのだが、両親に禁じられ、両親はアンナを「自分のことばっかり考えている」と非難する。
これは9歳の少女にしてみれば途方にくれるしかない事態だ。アンナには宗教やミッキー・マウスの何が悪いかわからない。彼女にとって宗教は“お話”であり、宗教の事業を禁じられるということは“お話”を取り上げられるということなのだ。しかも両親はその理由をろくに説明してくれない。彼女はふてくされ、ふくれっつらで日々を過ごす。そのふくれっつらがなんともかわいいので映画としては成立するし、その中でも彼女が自分自身で少しずつ成長していく姿がしっかりと描かれている。
ただ、話としては少々できすぎという感じがする。両親や周りの助けもほとんどない中で、少女がこのように成長していくというのは素晴らしいことだけれど、そんなことはなかなかない。水泳ならば、ちょっとした助言や練習によってうまくなるだろうけれど、自由という概念や虐げられる女性の権利などという問題を少女の狭い世界の経験や立ち聞きだけで理解できるとは思えないのだ。
アンナの成長を見ているとほほえましいし、勇気付けられるのだけれど、アンナがあまりにしっかりしすぎていて、作品のテーマがかすんでしまう。この少女なら別に両親が共産主義に目覚めなかったとしてもしっかりと育っただろうし、だとするとこの話は両親に愛されてはいるがかまわれていない子供が成長する姿を描いたというだけの話になってしまう。
となるとこの作品が舞台を1970年代におき、両親を共産主義者にしたというのは時代の雰囲気という背景を使いたいだけだったということになってしまうし、実際この作品ではその時代のフランスの政治的状況が描かれているわけでもない。
少女の成長ドラマとしてはとても面白いのだが、フィデルという名前と時代設定から期待されるプラスアルファがない分、大満足と言える作品にはならなかった。