私は見たい
2008/11/29
Je Veux Voir
2008年,フランス=レバノン,75分
- 監督
- ジョアナ・ハジトゥーマ
- カリル・ジョレイジュ
- 脚本
- ジョアナ・ハジトゥーマ
- カリル・ジョレイジュ
- 撮影
- ジュリアン・ヒルシュ
- 音楽
- スクランブル・エッグス
- 出演
- カトリーヌ・ドヌーヴ
- ラビア・ルムエ
2006年、チャリティのためにレバノンへとやってきたカトリーヌ・ドヌーヴはその数ヶ月前にイスラエルとの戦争によって破壊されたレバノン南部を見に行きたいと言い出す。スタッフは危険だといって止めるが、護衛をつけレバノン人アーティストのラビア・ムルエをパートナーに撮影をしながら行くことを決める。
大女優カトリーヌ・ドヌーヴを通してイスラエル軍によるレバノン爆撃の傷跡を描いたドキュメンタリー。主役はあくまでレバノンの風景。
ベイルートに戦争の傷跡は見えない。チャリティ・パーティーのためやってきたカトリーヌ・ドヌーヴはそのことに不満だったのではなかろうか。それは悲劇の痕を見たいというよりは、自分がやってくる理由となった出来事を自分の目で見たいという欲求、文字通り「私は見たい」という欲求なのだ。
だから女優は「見る」ためにたくさんのスタッフと護衛を引き連れてまだ地雷が埋まり、危険だといわれる南部へと向かう。ただ見るためだけのためにそんな危険を冒し、手間をかけるのは無駄に見えるかもしれないが、この大女優が見るということは世界が見るということにもなりうることであり、だからこそこの映画が作られたのだ。
映画のほうはというと、大部分が車中の映像または車窓からの景色で占められる。最初のうちはドヌーヴの案内人として運転手を任されたレバノン人アーティストのラビア・ルムエが緊張して、あまり会話も弾まないが、破壊された街に到着し、そこをふたりで歩くうちに徐々に打ち解けていく。
この破壊された街の風景はまさに“戦争の傷跡”である。建物は瓦礫の山と化し、道だったところが塞がれ、人けはない。この風景は戦争=破壊であるということを強く印象付ける。
そこからの旅路ではふたりの会話は弾む。会話の内容は他愛もないことだけれど、“戦争の傷跡”を目撃し、それを共有したことでふたりの間には絆のようなものが生まれ、それがふたりを近づけたのだろう。
しかし、会話に夢中になりすぎたラビアが道を間違えることでその空気は一変する。道を間違えたラビアのクルマをスタッフはあわてて止める。ラビアが向かってしまった道には地雷が埋まっているのだ。
これはおそらく映画上の演出だろうが、そこからの車中では会話はなくなる。そしてドヌーヴは居眠りを始める。車窓には戦争など感じられない平和な荒涼とした景色が続く。
私はこの部分が一番好きだ。戦争の傷跡を目にし、地雷によって戦争というものがまだ身近にあることを感じながら、そこにいまあるのは平和だということを象徴的に示していると思う。ドヌーヴの居眠りは安心感を意味し、ラビアとの親密さが揺らいでいないことを示している。
その後は国境でのひと悶着があり、ここでは戦争の無意味さや官僚主義なんてものが示される。
そして、ベイルートへの帰り道、ベイルートに入る直前で海岸にうずたかく詰まれた瓦礫の山が映し出される。そこではいまもショベルカーが鉄筋コンクリートを解体し、鉄とコンクリートを分けている。それはおそらくベイルートの街から運び出された瓦礫で、破壊された建物がいち早く廃棄され、新しい建物が建てられようとしていることを示している。
表面上は傷跡が残っていないように見えるベイルートにも傷跡は間違いなく残っているのだ。
そして、最後のパーティの場面、空虚な言葉ばかり並べるフランス大使やレバノンの有力者をよそにドヌーヴはラビアの姿を探す。虚飾ではない本当のレバノンの姿が薄らいでしまうのを食い止めようとするかのように。