リーニャ・ジ・パッシ
2008/12/1
Linha de Passe
2008年,ブラジル,110分
- 監督
- ウォルター・サレス
- ダニエラ・トマス
- 脚本
- ジェオルジ・モウラ
- ダニエラ・トマス
- ブラウリオ・マントヴァニ
- 撮影
- マウロ・ピニェイロ・Jr
- 音楽
- グスタボ・サンタオラージャ
- 出演
- サンドラ・コルヴェローニ
- ヴィニシウス・デ・オリヴェイラ
- ジョアォン・バウダセリーニ
- ジョゼ・ジェラウド・ホドリゲス
サンパウロに暮らすクラウザと4人の息子達。息子達はそれぞれ父親が違う。長男のデニスはバイク便のアルバイトをしながら遊びまわり、次男のジーニョはガソリンスタンドで働くが宗教にはまっている。三男のダリオはプロサッカー選手を目指し、四男でまだ子供のヘジナルドは父親を探して毎日バスに乗ってばかりいる。
ウォルター・サレスとダニエラ・トマスのコンビによる4本目の長編作品。貧しい家族からリアルなブラジルを描いた秀作。カンヌ映画祭でサンドラ・コルヴェローニが女優賞を受賞した。
クソみたいな人生を生きる5人の家族。
母のクラウザは父親のそれぞれ違う4人の息子を抱え、さらにもうひとりが生まれようとしている。メイドとして働き、サッカーチームのコリンチャンスの応援が生きがいだ。
長男のデニスはバイク便のアルバイトをしていて、すでに息子が一人いるが、結婚をしているわけでもなく、子供の母親に払う金にも困っている。
次男のジーニョはガソリンスタンドで働きながら足しげく教会に通い、狂信的だといってバカにされている。
三男のダリオはプロサッカー選手を夢見、さまざまなクラブのテストを受けるがあと一歩及ばず、18歳の誕生日を迎えてタイムリミットが迫っていると感じている。
四男のヘジナルドはまだ小学生で、唯一黒人の父の血をひいている。バスが大好きで、父親を探しながら毎日バスに乗ってばかりいる。
彼らは日々、何かにおわれるように生きているが、そこには何もない。あるのは遠くにかすんで見える希望のようなものと、すがりつく何かだけだ。
クラウザはコリンチャンス、ジーニョは信仰、ダリオはサッカー、ヘジナルドは父親に会うという夢にすがる。しかし、彼らがすがりつくわずかな希望も消えうせようとしている。
そして、デニスにはすがりつくものすらない。彼はもはや何かにすがろうという気持ちすら失ってしまっている。希望を失ってしまったデニスとわずかな希望にすがるダリオ、このふたりが物語を推し進めていく。
この作品はひとりの主人公がいて、それを中心に家族が描かれるという作品というよりは、ブラジルの貧困層の象徴としての家族のそれぞれを描くことで、ブラジルの人々が抱える絶望と希望を描いた作品だといえる。
そのときにキーワードとなるのは、サッカー、貧困、暴力、家族。
サッカー。
ブラジル人の若者のほとんどが憧れるサッカー選手、ダリオは才能に恵まれ、プロに手が届きそうなところにいるが、18歳という年齢はプロサッカー選手になるにはもう遅すぎるかもしれないのだ。しかしそれでも彼にはチャンスが訪れる。しかし、そのチャンスをものにするにはお金(賄賂)が必要となる。
クラウザの生きがいはコリンチャンスの応援だ。コリンチャンスは1910年に設立された名門クラブで、貧困層の熱狂的なサポーターが多い。過去にはドゥンガやリバウド、最近ではマルコス・セナが所属していたが、2007年、コリンチャンスはクラブ史上初の2部落ちの危機にあった。
コリンチャンスに関しては、次男のジーニョがガソリンスタンドのボスに「サントスに勝てるわけがない」といわれるというエピソードもある。これは貧しいものにとっての希望であるサッカーの世界までもが貧富という勝敗の原理に支配されていることを示唆する。
貧困。
貧困は人々をさまざまな行動に駆り立てる。その一つは信仰で、次男のジーニョは現実の希望の代わりに宗教にすがる。しかし彼が通う教会は落伍者が慰めあうクラブのようなものであり、神父さえも敗者の一人である。助け合おうという意識はあるが、敗者だけが集まったところでどうにもならないという現実がそこにはある。
暴力。
そして貧困がもたらす希望のなさは暴力と結びつく。鬱積した不満は暴力というかたちで外に吐き出される。
そしてそれは時には犯罪へと結びつく。ブラジルの都市に暴力が蔓延しているのが貧富の差ゆえであるのはいうまでもないだろう。しかし、貧しい若者がみな犯罪に走るわけでは決してない。誰だって他に抜け出せる道があればその道をたどりたいのだ。しかし、その道はあまりに険しい。
家族。
この家族はばらばらになりかけている。家の前に放置された走らない車は家族構成の欠如の象徴であり、彼らは自分自身の悩みに手一杯でほかの家族のことを考えることができない。つまり続ける排水溝は家族間のコミュニケーションの欠如の象徴だ。
しかし、この排水溝のつまりは絶望的な状況に陥って無為に日々を過ごすダリオによって直される。車は動かないままだが、ヘジナルドは毎日バスに乗って運転を覚え、ついにバスに乗って走り出す。
これらが表現するのは、いくら希望が失われても、家族は常にそこにいるということだ。いくら反目し合い、時には憎みあっても、家族は家族である。社会にどれほど拒絶されても家族は最後には受け入れてくれる。
甘ったるい家族愛を描いているわけでは決してないが、家族は人々が絶望に陥る最後の防壁となっているということは描かれている。
この作品は、この家族の一冬を描く。それぞれがその時間の間に見通しの暗い未来とどう折り合いをつけ、どのような希望を見出すのか、それを描いているといえる。それぞれが抱える問題や希望は十分に興味深いものであり、それが終盤に決定的な局面を迎え、観客の注意をひきつける。それぞれがまったく違う形で人生の決定的な瞬間を迎えるそのとき、観客は別々の場所にいる家族が、しかしどこかでつながっていることを感じるのだ。
散逸するイメージの中に見出される希望、最後の最後まで本当に素晴らしい映画だ。