アフター・ウェディング
2009/1/6
Efter Brylluppet
2006年,デンマーク=スウェーデン,119分
- 監督
- スザンネ・ビア
- 原案
- スザンネ・ビア
- アナス・トーマス・イェンセン
- 脚本
- アナス・トーマス・イェンセン
- 撮影
- モーテン・ソーボー
- 音楽
- ヨハン・セーデルクヴィスト
- 出演
- マッツ・ミケルセン
- ロルフ・ラッセゴード
- シセ・バベット・クヌッセン
- スティーネ・フィッシャー・クシルテンセン
- クリスチャン・タフドルップ
インドで孤児院を運営するヤコブは運営資金の確保のため実業家のヨルゲンに会いに故郷のコペンハーゲンまで行くことに。ヨルゲンの強引な誘いで娘のアンの結婚式に出席することになったヤコブはそこで20年ぶりに昔の恋人に遭遇する…
デンマークの気鋭スサンネ・ベアによるスリリングなヒューマンドラマ。
インドで孤児院を運営する人道活動家が母国のデンマークに資金繰りのためにやってくる。支援を頼む実業家のヨルゲンはビジネスライクで他の候補の中から検討すると言うが、翌日の娘の結婚式に来るよう強引に説得する。ここまでは欧米と第三世界との格差を描いた作品であるように見える。
しかし、その結婚式当日、ヨルゲンは壁に埋め込まれた金庫に何かを隠す。一方ヤコブのほうは20年前の恋人ヘレネに結婚式で再会、それはなんとヨルゲンの妻だった。そして披露宴で、新婦のアナは自分がヨルゲンの実の娘ではないということを告白する。ヤコブはアナが自分の娘であることに気づき動揺する。
ここで物語の雰囲気はがらりと変わる。欧米と第三世界の物語から個人と個人の物語に。様々な人々が関わる中でどのような道を選ぶのかという選択の物語に。選択というのは人生の重要な要素であり、またその人となりが表出する行為でもあると思う。この映画はそれぞれの選択を通して一人一人の人間性を描き出していくのだ。しかもそれは当初の欧米と第三世界という問題設定とも無関係ではない。
ここに登場する誰もが善人である。みなエゴによってではなく自分が大切に思う誰かのために行動している。もちろんそこには自分の幸せも含まれているが、まず自分のことを考えるのではなく周囲と自分の利益が両立するように出来事が推移することを望むのだ。しかしそれでも衝突が起きるのは、それぞれが築き上げた価値観が異なるからだ。
たとえばヤコブがアナに説明するようヘレネに求めるのは、アナには実の父親を知る権利があるからだ。しかしヘレネはヤコブが父親であると告げることで彼女が混乱することを恐れる。それはどちらもアナのことを思っての行動だ。だが同時に娘と出会うことができたり、娘との間に新たな軋轢を抱えずにすんだりという自分自身の利益ともつながっている。
この映画にはそのような誰かのためであると同時に自分のためであるような判断が無数に出てくる。ヤコブやヘレネだけでなく、ヨルゲンもアナもそうなのだ。そのように決して悪人ではない人たちがそれでも時に衝突し、隠し事をせざるを得ず、迷い、誤りを犯す。そのリアリティが本当に素晴らしい。ある意味では濃縮された生のかたちがここに描かれていると言ってもいいだろう。
特にヤコブは20年という時間をインドで過ごしてきた。そのことがデンマークに暮らし続けたほかの人々は決定的に異なる世界観を作り上げたのではないか。そしてその彼が再びデンマークの人々と対峙するとき、彼と他の人たちの差異が際立つ。
そして特異な性質を持つように見えるヨルゲンもその秘密が明らかになることで、その生々しさが際立ってくる。
そして、音楽や色の使い方もいい。映像はドグマ95(ラース・フォン・トリアーらによって始められたデンマークにおける映画運動。ロケーション撮影、手持ちカメラ、照明の禁止などといった制約がある)出身だけあって手持ちカメラを多用した動きのある映像だが、そのような映像にもかかわらずうるさくない。固定カメラの映像も使いそこに印象的な色を配置することや、手持ちカメラの映像に音楽をリンクさせ滑らかな動きを印象付けることによって“カメラ酔い”のような現象は起きないようにしてあるのだ。
古から良質な映画を数多く生み出してきたデンマーク、そこからまたひとり偉大な映画作家が現れた。そんなことを実感する映画だった。