悲しみが乾くまで
2009/1/14
Things We Lost in the Fire
2008年,アメリカ=イギリス,119分
- 監督
- スザンネ・ビア
- 脚本
- アラン・ローブ
- 撮影
- トム・スターン
- 音楽
- ヨハン・セーデルクヴィスト
- 出演
- ハル・ベリー
- ベニチオ・デル・トロ
- デヴィッド・ドゥカヴニー
- アリソン・ローマン
- アレクシス・リュウェリン
- オマー・ベンソン・ミラー
ふたりの子供に恵まれ幸せに暮らすオードリーだったが、ある日夫のブライアンが殺されてしまう。葬式の当日、オードリーはブライアンの親友ジェリーの存在を思い出す。そのジェリーはヤク中でブライアンだけがただひとりの友達だった。ブライアンの死から立ち直れないオードリーはある日、ジェリーを訪ねる。
デンマークの気鋭スザンネ・ビアがハリウッドに招かれて撮ったヒューマン・ドラマ。デンマーク時代と変わらない真摯なドラマに心打たれる。
愛する夫を失った妻と唯一の親友を失ったヤク中の男。物語はその夫ブライアンの死からはじまる。その葬儀からの時間とオードリーの回想シーン、そしてジェリーの回想シーンが織り交ぜられながら物語は進んでゆく。
オードリーはヤク中のジェリーを避けていて、そんな男にかまい続ける夫が理解できなかった。ジェリーはジェリーでヤク中の自分がブライアンの妻や子供と会うことは出来ないと考えていた。
オードリーはいつまでもブライアンの死から立ち直れず、ジェリーはブライアンの死を機にドラッグから足を洗おうと考える。オードリーは自分でもわからない何かを求めて嫌っていたはずのジェリーに会いに行き、ドラッグをやめて16日たつというジェリーを家に招く。
全体的な展開は、余計なことをすべて省いて淡々とした描写をしながら、観客の想像を刺激するスザンネ・ビアのスタイルを貫いている。しかし映画が中盤に差し掛かろうとするとき、ブライアンが殺された事件のあらましが詳しく描写される。「暴力をとめようとして殺された」という説明だけで彼の死を感じ取ることができる以上、それは不必要な描写ではないかとそのときは感じた。やはりスザンネ・ビアでもわかりやすさを求めるハリウッドの圧力には抗いきれなかったのかと。
しかし実はそうではなかった。この描写以降はブライアンの姿が映像としてまったく現れなくなることでこの一見過剰に見えるシーンが生きてくるのだ。観客はオードリーやジェリーや子供たちがブライアンに言及するたびにその最後の彼の姿を思い浮かべてしまう。彼の死という厳然たる事実が突きつけられるのだ。
そしてさらに重要なのは、オードリーやジェリーや子供たちにとっては決してそうではないということだ。彼らはブライアンの死を目にしていない。もちろん遺体は目にしただろうが、それは死そのものではなく、生の痕跡である。だからオードリーはいつまでもブライアンの死を受け入れることができない。彼の存在を感じ続けて、ジェリーにその隙間を埋めさせながら自分自身をごまかしていくのだ。
しかし、それもいつかは乗り越えなければならない。そしてそのために必要なのは、死という厳然たる事実を直視することなのだ。それはもちろん悲痛なことだけれど、先に進むためにはどうしても必要なことだし、決して残酷でも不正直でもないことなのだ。そしてスザンネ・ベアはオードリーが事実に向き合う瞬間もしっかりととらえる。そしてそれがもたらされるのは近しい人ではなく、同じような経験をした他人からである。
これは非常に示唆的だ。愛する人を失うという絶望的な悲しみ、その悲しみの本質を理解することは誰にも出来ない。人はそれぞれ異なった想い出を持ち、その想い出すべてを他人と共有することなど出来ないからだ。しかしそれはそれとしてどこかで似たような経験をした他人と共感したり、死が偏在しているという事実に気づくことがある。それは癒されるというよりは自ら立ち直る過程である。それを説明臭くならずに描くスザンネ・ビアはやはりすごい。
今回は、ベニチオ・デル・トロが本当によかった。この役者は本当にうまいし、役になりきる力があると感じさせる。あとは音楽がいい。音楽を担当したのはデンマーク時代からのヨハン・セーデルクヴィストだが、ジェリーが聴く音楽にヴェルヴェット・アンダーグラウンドやフランク・ザッパを選ぶというセンスが好きだ。
ハリウッドに来ても文句なしの作品を撮ったスザンネ・ビアにはこれからもデンマークとハリウッドの両方で作品を撮ってもらいたいものだ。