しあわせな孤独
2009/1/21
Elsker Dig For Evigt
2002年,デンマーク,113分
- 監督
- スザンネ・ビア
- 原案
- スザンネ・ビア
- 脚本
- アナス・トーマス・イェンセン
- 撮影
- モーテン・ソーボー
- 音楽
- イェスパー・ヴィンゲ・レイスネール
- 出演
- ソニア・リクター
- マッツ・ミケルセン
- ニコライ・リー・コス
- パプリカ・スティーン
研究者のヨアヒムとコックのセシリは結婚を間近に控えていた。ヨアヒムが調査旅行に行く日、セシリの目の前でヨアヒムが交通事故にあってしまう。一命は取り留めたが全身麻痺となったヨアヒムはセシリに当たってしまう。加害者の夫で医師のニルスはそんなセシリを慰めようとするのだが…
ラース・フォン・トリアーが提唱する“ドグマ95”の1本で、監督はデンマークの新鋭スザンネ・ビアだが、“ドグマ95”の規定からクレジットされていない。
物語の発端はヨアヒムの事故である。加害者のマリーは慌てふためき、ヨアヒムの婚約者セシリは呆然とする。マリーの夫ニルスは医師で病院に駆けつけるが、その日はマリーの車に同乗していた娘スティーネの誕生日、夜には気が乗らないまま誕生日会が開かれ、その様子と病院の薄暗い待合室でいらいらしながら待つセシリが対照的に映し出される。
そしてヨアヒムは一命を取り留めたものの首から下が付随となり、セシリをも拒絶する。
マリーのほうはセシリの気持ちを察し、ニルスにセシリの相談相手になってくれるよう頼む。そしてセシリは心細さからニルスを頼るようになる。
単純な構図にしてみると、事故の加害者と被害者、そしてその親しい人たちが陥る困惑と困難ということになるのだが、もちろん物事というのはそう簡単に理解できるものではない。単純ではない人の心理やその行動の背景について考えてみると、ぼんやりと浮かび上がってくるものがあるように思える。
セシリはヨアヒムを心配し、一命を取り留めて安心するが、拒絶されて困惑し、途方にくれる。そこで救いになりそうなニルスを頼り、関係を持つようになる。そしてニルスといい関係を築くのだが、果たしてヨアヒムの精神状態が安定し、再びセシリのほうを向いたときセシリはどうするのか。ニルスとヨアヒムに対する気持ちはどのようなものなのか、そこに複雑な心理が潜む。
もうひとりの主人公ニルスに関しては単純だ。寄る辺のない弱々しい若い女性に頼られてその気になってしまう。保護者であるという意識が恋の意識にすりかわるのは容易なことだ。
マリーは自分が起こした事故によって苦難に陥ったセシリのことを心配しはするが、自分の生活や家庭を犠牲にしてまではという気持ちを持つ。
セシリについて疑問に思うのは、そもそもどれほどヨアヒムを愛していたのかということだ。最初にヨアヒムがセシリにプロポーズするシーンがあるのだが、彼女はそれほど喜んでいるようには見えない。ヨアヒムと一緒になることよりも結婚するということに対して喜んでいるようだ。
そして、ヨアヒムに拒絶されるとニルスに慰めを求める。この衝動は理解できなくないが、本当にヨアヒムを愛していたらそんな行動をとるだろうかと思う。
この映画の中で本物だと感じられるのはマリーの子どもたちに対する愛情だけだ。浮気をした夫に「女を抱いたら帰ってきて」と告げるのは自分が傷ついても子どもたちを傷つけないための言葉である。しかし、彼女は自分と子どもたちのことしか考えていないというのも確かだ。加害者でながらヨアヒムやセシリの絶望に対して実際に何かアクションを起こすということはしない。厄介ごとは夫に任せて自分は子どもたちのために生きる。結果的にそれが彼女によっての悲劇を招くのはもしかしたら自業自得といえるのかもしれない。
ヨアヒムの絶望は絶対的だ。首から下が付随になってしまった人間の絶望を誰が想像することが出来ようか。それでも彼はなんとか「現実と折り合いをつけ」ようとする。
登場人物のうちの誰を中心に見てゆくか、それによってこの映画の印象はがらりと変わる。しかしそれでもここに登場する誰も責めることは出来ない。いずれにしても人間とは自己中心的で脆い生き物なのだ。そのような欠点を抱えながらいかに他人に優しく出来るのか、そしてどうすれば他人を傷つけずに生きることが出来るのか。決して答えの出ないそんな課題を突きつけられているような気がする。