ダークナイト
2009/1/24
The Dark Knight
2008年,アメリカ,152分
- 監督
- クリストファー・ノーラン
- 原案
- クリストファー・ノーラン
- デヴィッド・S・ゴイヤー
- 脚本
- ジョナサン・ノーラン
- クリストファー・ノーラン
- 撮影
- ウォーリー・フィスター
- 音楽
- ジェームズ・ニュートン・ハワード
- ハンス・ジマー
- 出演
- クリスチャン・ベイル
- マイケル・ケイン
- ヒース・レジャー
- ゲイリー・オールドマン
- アーロン・エッカート
- マギー・ギレンホール
- モーガン・フリーマン
ゴードン警部補と協力してゴッサムシティの犯罪撲滅へと乗り出したバットマンだったが、ジョーカーと名乗る男が次々と凶悪事件を起こし、バットマンを模倣した一般市民たちも次々と巻き込まれた。そこに正義感に燃える地方検事ハービー・デントが赴任してきてジョーカーを追い詰めていくのだが…
クリストファー・ノーラン監督による「バットマン」新シリーズの第2作。ジョーカー役のヒース・レジャーが好演を見せたが、撮影終了直後に亡くなり、遺作となった。
「バットマン」はやはりバットマンの物語であり、ジョーカーはあくまでも敵役に過ぎないはずだ。しかし、この作品ではそのジョーカーこそが主役であるかのように物語が展開され、ヒース・レジャーも見事にその期待にこたえる演技を見せた。直後に亡くなり、遺作となってしまったのは残念な限りだが、それを割り引いても素晴らしい演技だったと思う。
そしてなぜジョーカーが主役のようになったのかといえば、この作品ではジョーカーがずれない軸であり、バットマンや他の登場人物たちはぶれのある存在だからだ。ジョーカーは“悪”そのものであり、ゴッサムシティを混乱に落としいれ自分の欲望の赴くままに行動することだけを目的にしている。
それに対してバットマンは“善”を体現してはいるのだけれど、自分が“善”であることとヒーローになることのずれに悩み、善とは関係ないところでレイチェルとハービーの関係に悩む。バットマンは能動的に善を施すべく行動しているというよりは、ジョーカーの振りまく悪から街を守るために行動しているに過ぎない。だからバットマンはまんまとジョーカーの計略にはまり、右往左往してしまうのだ。
そんなバットマンとジョーカーの関係を見事に表しているエピソードが映画の後半にある。ジョーカーがハービーとレイチェルを別々の場所に人質にとってその場所を教え、どちらかしか助けられないとバットマンに告げる。バットマンはレイチェルを助けに向かうのだが、そこにいたのはハービーだった。このジョーカーの嘘はその後言及されることはないが、物語の上で非常に重要なものだし、この嘘にすべての関係が表されているように思える。ジョーカーはバットマンを自分の悪を妨げるものというよりは、ただそれをより難しく面白いものにしているだけと捉えているのだ。
もうひとりの“善”の体現者ハービー・デントのほうはバットマンと比べるとぶれがない。彼はとにかくジョーカーを追い詰めて街に平和が訪れることを求めるのだ。それによって善の側の軸がバットマンではなくデントになっているということもこの作品におけるバットマンの存在感を薄めるひとつの要因になっている。
アクションは確かにすごい。派手なアクションでついつい笑ってしまうようなシーンもいくつかある。笑ってしまうというのは馬鹿にした笑いというよりは、あっけに取られる笑い。ありえなすぎてついつい笑ってしまうけれど、そのありえなさが面白さでもあるのだ。
だからアクション映画好きにはたまらない映画であるというのはわかる。アクションが面白くなるためには、ヒーローが圧倒的に強いよりは、悪役が強くてヒーローのほうが右往左往するほうがいいのだ。それでも普通はヒーローがどこかで悪役に上回って勝利を手にするところにカタルシスが生まれる。
しかしこの作品にはそのカタルシスはない。むしろジョーカーが敗れてしまったのが惜しいような、そんなはずはないという気持ちにさせられる。その原因はジョーカーの過信にあったのだけれど、それでも彼はそこから挽回するはずだと信じる気持ちになってしまうのだ。
ただそれでは物語り全体がどうもまとまりのないもののようにも見えてきてしまう。果たして誰が中心で何が眼目なのか皆目検討がつかなくなってしまうのだ。完全悪のジョーカーに感情移入することもできないし、中途半端なバットマンにも共感できない。客観的に見るには彼らの価値観が極端すぎて意外さというものがない。
もし次の作品でもジョーカーとバットマンの対決が続き、そこでまた新たな展開が生まれるのだとしたら、シリーズの一作品としてはそれで問題がなかったのだろう。しかしヒース・レジャーを失ってしまった今、それを実現する次回作は望めそうにない。そうなるとこのもやもやとした終わり方はどうも納得ができない。
これはもしかしたら“絶対悪”なるものが存在すると信じたいアメリカの欲望が生み出したキャラクターであり、物語なのではないか。もし“絶対悪”が存在するならば、それを基準として自分の善を計ることができる。それを“世界の警察”を自認するアメリカは望んでいるのではないか、そんなことをちらりと思った。