愛のむきだし
2009/1/29
2008年,日本,237分
- 監督
- 園子温
- 原案
- 園子温
- 脚本
- 園子温
- 撮影
- 谷川創平
- 音楽
- 原田智英
- 出演
- 西島隆弘
- 満島ひかり
- 安藤サクラ
- 渡辺真紀子
- 渡部篤郎
クリスチャン一家に生まれ、子供のころに母を亡くした角田ユウ、母の子をきっかけに父が神父となり教会に住むことになったが、その父がサオリという女に引っかかり、ユウに罪を懺悔を強要するようになる。懺悔のための罪を作らなければならなくなったユウはやがて“盗撮”に自らの才能を見出す…
鬼才園子温がカルトとキリスト教の関係をネタに描いた4時間に迫る人間ドラマ。とにかく疲れます。
主人公のユウはなくなった母の想い出から女性を神聖視し、“マリア”が現れるのを待っている。そのため性欲を感じることも女性に惹かれることもない。
父親のテツは神父だが、サオリという女に引っかかり、教会を出てその女と暮らすようになり、しかし女がやがて出て行ってからおかしくなってしまう。ユウに懺悔するよう共用し、ユウは父を失望させないために罪を作り出そうとする。最初は些細な罪だったが、最終的に“盗撮”が手軽な手段だと考えるようになり、何故か盗撮のカリスマとなってしまう。
それでも彼はそれに性欲を感じているわけではない、仲間とチームを作り、いかに困難な状況で「パンチラ」を撮ったか、そしていかにいい写真が取れたかを競う。別にいい写真と言っても性欲をあおるかどうかが問題なのではなく、すごい写真かどうかが問題になる。
この時点でこの作品はわけがわからない。カリスマとされるユウの写真の撮り方というのもおかしい。拳法から編み出したと考えられる盗撮マスターから教えを受けるのだが、これがまったくリアルではない。もちろんそれは劇画化であり、そこにリアリティを求めているわけではないのだが、それで盗撮のカリスマといわれてもだからなんだと思うだけだ。
しかし、そこにカルト教団が関わってくることで物語は少し面白くなってくる。人を洗脳し取り込もうとするカルト教団とそこから誰かを取り戻そうとする人間、その対立は現実の世界でも問題になる事件として表れている。洗脳という理不尽、主観と客観の関係、人間の精神のあやふやさや危うさ、そういったものを描く素地は十分にある。
しかし、キリスト教的な象徴の意味がよくわからない。愛や犠牲や信念や、そういったものが問題になっていることはわかるのだが、それが結局何なのか。教会とカルトの違いは何なのか、結局のところカルトの目的とは何なのか。そのあたりが判然としないため、4時間の映画を見終わってももやもやとしたままだ。しかも、何かを考えようという意欲につながるもやもやではなく「だから何なんだ」という先の見えないもやもやなのである。
確かにいろいろな要素が盛り込まれて入るが、果たしてこれを4時間の作品にする意味があったのか。要素を減らして2時間にまとめたほうが見るものの心に響いたのではないか、そんな気がしてならない。映画にフォーマットはないが、2時間というのが基準として存在する。そうである以上、その基準から大きく外れるには妥当な理由がなければ納得できない。奇をてらうためだけにやたらと長い映画を作ったのならそれは鬼才でもなんでもない。鬼才と呼ばれるクライなのだから、この内容を2時間にまとめるだけの力があって欲しかった。