インテリア
2009/2/6
Interiors
1978年,アメリカ,93分
- 監督
- ウディ・アレン
- 脚本
- ウディ・アレン
- 撮影
- ゴードン・ウィリス
- 出演
- ダイアン・キートン
- ジェラルディン・ペイジ
- E・G・マーシャル
- クリスティン・グリフィス
- サム・ウォーターストン
娘の家のインテリアにいろいろと口を出すイヴを婿のマイクは快く思っていない。しかし、そのペイジは精神を病み、入院を経験し、今は回復の途上にある。ペイジには3人の娘がいるが、夫のアーサーは家を出て今は別居中、娘たちは母を心配しながらも自分たちも問題を抱えていた。
ウディ・アレンが初めて撮ったシリアス・ドラマ。彼が敬愛するベルイマンの影響が強いといわれる作品。
ジョーイ、レナータ、フリンという3人の娘は末娘であまり登場しないフリンを除いては精神的な不安定さを抱えている。ジョーイの不安定の原因ははっきりしないが、彼女は何をやっても才能のない自分に悩んでいるようだ。詩人であるレナータのほうは仕事にも夫との関係にも悩みを抱えている。
イヴの夫(娘たちの父親)との別居からイヴ、ジョーイ、レナータの3人がどんどん混乱してゆくさまを描く。その展開の仕方は非常に綿密に練られている。娘同士の関係、ジョーイとレナータとそれぞれの夫との関係、それぞれの持つ仕事、それらが少しずつ明らかになり、彼女たちの精神を形作るさまざまな要素が持つ意味が明らかになる。
それはあたかも、部屋がさまざまなインテリアで構成されているかのように、精神がさまざまな要素で構成されているさまを表現する。この作品の題名の『インテリア』には内装としてのインテリアと人間の内部(インテリア)である精神のふたつの意味があるのだ。
イヴが整えた完璧なインテリアがその調和を失うとき、イヴと娘たちの精神の内部(インテリア)も調和を失ってしまう。お金もあり、幸せなはずの一家が崩壊してしまうのはなぜなのか。“完璧”である母親の存在そのものが問題だったのか。
この作品は静謐さの中で、映像が「語る」作品である。言葉ではなく殺伐とした部屋の様子や身振り手振りで感情を表現する。その部分は非常にうまい。しかし、それによって表現された精神の崩壊がいったい何を意味するのかという点については何も語らない。彼女たちは自分の悩みに手いっぱいで他まで気が回らない。他に気が回らず、ただただ相手に怒鳴り散らして自分を守ろうとするのだ。その不毛な応酬から何かが生まれるとは思えない。
ただ、この精神の崩壊の描写には迫力がある。イヴだけでなく、ジョーイもレナータもやんでいく。終盤、父親が再婚した家でジョーイはイヴの姿を見るが、果たしてそれが現実なのか彼女の幻想なのか疑わしくなってしまうほどに彼女の精神は崩れてしまっているのだ。そしてそのイヴが幻の可能性を生み出す映画の話法は素晴らしいものだ。
果たしてこの作品を傑作とするか、退屈と思うか、それとも単なる模倣と考えるか、それは見る人しだいだ。私は人の精神を描いた作品としては面白いと思ったが、もう一歩踏み込んだ精神の複雑さを描いて欲しかった。
あるいは、この精神の崩壊が生み出す悲劇をサスペンスタッチで描いても面白かったと思う。