コヤニスカッティ
2009/5/8
Koyaanisqatsi
1982年,アメリカ,86分
- 監督
- ゴッドフリー・レジオ
- 脚本
- ロン・フリック
- ゴッドフリー・レジオ
- マイケル・ホーニッグ
- アルトン・ウォルポール
- 撮影
- ロン・フリック
- アルトン・ウォルポール
- 音楽
- フィリップ・グラス
- マイケル・ホーニッグ
- 出演
- ドキュメンタリー
自然の風景、現代社会の風景を現代音楽をバックに綴る映像詩。セリフナレーションは一切なく、登場人物といえるような人間もいない。空撮を中心とした風景が次々と流れるだけだが、そこからは文明に対する疑念というべきメッセージが読み取れる。
フランシス・フォード・コッポラが製作に参加、シリーズとして製作され、88年に第2作『ポワカッツィ』、2002年に第3作『ナコイカッツィ』が作られている。
アメリカの中西部辺りと思われる荒涼とした風景や砂漠の光景がしばらく映されたあと、工場、飛行機、ハイウェイといった文明の光景に移る。そのほとんどは空撮で観客は空をすべるように荒野から都市へと移動する。そしてさらに都市の人々を映す映像へと移る。
何もない荒野から車で埋め尽くされたハイウェイ、そして人で埋め尽くされた都会へ、そこに読み取れるのはわれわれ人類が以下に地球を物質で埋め尽くし、人間を狭い場所に集中させているかということだ。そして、壮大な自然の風景に比べて醜いとしか言いようのない都会の風景、そこにこの作品が投げかけるメッセージの根幹がある。
夜になると都市は光で埋め尽くされる。ビルの窓から漏れる灯り、車のヘッドライト、街灯など。早送りで車のヘッドライトやテールランプが光の帯へと変えられた映像には美しさも感じるが、膨大な車がハイウェイを埋め尽くす昼間の光景と対比されると、そこに存在する無駄にどうしても頭がいってしまう。
“コヤニスカッツィ”とはネイティブ・アメリカンのホピ族の言葉で「均衡を失った社会」というような意味だという。都市に人間と物質が集まり、光や排気ガスを垂れ流す社会は確かに均衡を失っている。
そして最後には人々が映される。人間は街を埋め尽くしているにもかかわらず、その一人一人を映して見ると孤独で悲しげだ。群衆の中の孤独、それは小さなコミュニティの人と人とに密接なつながりと対比される均衡を失った社会である。それは昼間ハイウェイを埋め尽くす車のシーンからもうかがい知れる。膨大な数の車に載っている人はほとんどがひとりで、同じ方向に進んでいるにもかかわらず隣の人との間は鋼鉄の壁でさえぎられている。
文明は無駄なものをどんどん生み出し、それによって生み出される新たな危険から身を守るためにさらにさまざまなものを生み出す。その結果、人と人とのつながりは希薄になり、社会はどんどんいびつになっていく。
このようなことは今となっては目新しい考え方ではない。しかし、それを映像だけで私たちに伝え、しかもその映像にも力があるというのがこの作品の素晴らしいところだ。多くの環境映画は映像のスピードがゆっくりで眠気を催したりするのだが、この作品は逆に日常の数倍のスピードの映像を多用し、現代社会の“速さ”を表現しているところもいい。社会の均衡が崩れる速度が増したのは“電気”の発明がその発端であるという考え方があるが、人間の生来の能力を超えたスピードで物事が進行してしまうということが均衡を崩しているというのは説得力のある意見だ。そしてこの作品はそのことを映像を通して伝える。
速いことは便利なことだが、多くのものを失わせもする。そんなことを考えさせてくれる作品だ。