歩く、人
2009/5/20
2001年,日本,103分
- 監督
- 小林政広
- 脚本
- 小林政広
- 撮影
- 北信康
- 音楽
- サン・サーンス
- 出演
- 緒方拳
- 香川照之
- 林泰文
- 大塚寧々
- 占部房子
北海道の増毛町、造り酒屋を営む本間信雄は2年前に妻を亡くし、今は次男の安夫と二人暮し。毎日2里先にある鮭の養殖場に行き、鮭の稚魚を見て馴染みの女性職員の美知子にあるのが日課。信雄の長男の良一はミュージシャンを目指して留萌で暮らすが、子供が出来たのを気に生活を考え直す…
小林政広の監督第4作。不自然さからユーモアが漂う不思議な作品。カンヌ映画祭「ある視点」部門に正式出品された。
ここに登場する人たちはみんななんだか不自然だ。セリフが棒読みな感じなので、一見すると役者の演技が下手なのかと思わせる。そのため、映画の前半はなかなか作品になれることができない。緒方拳はいいのだが、『歩く、人』が歩くときにかかるピコピコとしたBGMが雪世界の風景にそぐわずそこにも違和感を感じてしまう。
緒方拳演じる信雄が冗談のように恋心を寄せる年下の女性美和子との会話のぎこちなさ、安夫の言葉のわざとらしさ。それらは会話をしている人間関係のぎこちなさを表しているというよりはただ単に不自然で作り物じみたものを感じさせるものだ。
カメラワークの不自然さもある。手持ちカメラでぐらぐらと揺れながらパンしたり、よるべきところでやたらと遠くから撮り続けたり。私たちが“自然な”映画に期待する語り口とは明らかに違う語り口が選択されているのだ。
しかしそれが“下手”だからではないことは、周到に計算されたカメラワークが観られることからもわかる。それが最も端的に現れるのは信雄が養殖場に行くまでの道のりだ。この道のりをほぼ同じカメラワークで2度映すことで観客にその道のりを覚えさせ、3度目はそれを途中省略して映すことで信雄のあせりを表現する。
しかしやはり「おかしい」と思わせる部分もいろいろあり、時には明らかな矛盾が存在するようなところもある。一番「おかしい!」と思ったのは、彼女に振られた安夫が車の中で一言叫び、車から走り出て立ちションをするというシーン。同じシーンが時間を置いて2つの視点から映されるのだが、そのふたつのシーンで安夫の走る方向が明らかに違う。最初のシーンではカメラが車の中にあり、安夫は最後まで窓のフレームの中に納まっているのだが、2度目では車の外やや上から撮られていて安夫は車の前方にフレームアウトして行く。
これらの不自然さはこの映画のリアリティをどんどん奪っていく。しかし、それでつまらなくなるかといえば逆になんだかおかしくなってくるというのがこの作品の不思議なところだ。つまり、リアルさを求めて映画を見る目からは不自然に見えていたものが、そもそもリアルさを捨て去っているという前提を受け容れることで可笑しさとして見えてくるというわけだ。
これはどこかで小津の手法と通じるところがあると思う。小津も棒読みのセリフや徹底的なローアングルという不自然な視線によってわれわれの日常生活のリアルとは異なる様式で作品を撮った。その本来なら不自然であるはずの小津の前提を受け容れることで彼の作品は輝きを放ち、そのドラマが浮き立つ。小津の場合はただ前提を受け容れさせるだけではなく、見るものを映画の側に引き込むことで更なる一歩を踏み出させた点でやはり巨匠というところだが、小林政広も基本的な部分では同じことをやっているのだと思う。ただ、それが不自然さを受け容れさせるところで止まっているがゆえに笑いにしかつながらないということになるのだろう。
映画の終盤は何度も不意を付かれて笑ってしまった。可笑しさというのは基本的に「自然なもの」からのギャップから生まれる。その意味ではこの作品は正道を行っているということなのかもしれない。ただそれが自然さを装ったドラマの中に隠されているところが“変”なのだ。日常に潜んだ変なものには普段でもついつい笑ってしまう。そんな可笑しさをこの映画はスクリーン上で作り出しているということだ。
それはどこかで人間という生き物の“可笑しさ”を表現しているように私には思えるのだが。