BOY A
2009/5/26
Boy A
2007年,イギリス,107分
- 監督
- ジョン・クローリー
- 原作
- ジョナサン・トリゲル
- 脚本
- マーク・オロウ
- 撮影
- ロブ・ハーディ
- 音楽
- パディ・カニーン
- 出演
- アンドリュー・ガーフィールド
- ピーター・ミュラン
- ケイティ・ライオンズ
- ショーン・エヴァンス
長い刑期を終え少年院を出た青年、ジャックと名前を変え見知らぬ土地で新しい人生を始める決意をする。親身なソーシャル・ワーカーの助けもあって順調に仕事にも馴染み、恋人も出来たが、親密な関係を結ぶとともに自分の過去が引っかかるようになる…
罪を犯した少年の未来を描いたヒューマンドラマ。主演のアンドリュー・ガーフィールドがとてもいい。
重罪を犯した少年が少年院を出る、そのとき何が起きるのか。このテーマ自体は何度も問われていることであり、この映画のストーリーも常識的な展開をすると言っていいだろう。しかし青年になった少年の心の動きは見るものの心を打つ。
この作品が心に響くのは、なんと言っても主演のアンドリュー・カーフィールドの演技によるところが大きいだろう。最初の戸惑いの表情、ぎこちない笑み、これまたぎこちない踊り、彼の演技が見事にジャックの戸惑いと苦悩と喜びを表現している。
そしてそのジャックを通してこの作品がまず言っているのは、人は過去から逃れられないということだ。どんなに名前を変え、経歴を書き換え、最終的にすべての人が忘れ去ったとしても過去は記憶としてその人の所にとどまる。どんなに逃げようとしてもそこから逃げることは出来ない。
陳腐な言い方になるが、重要なのは過去を忘れることではなく、過去を乗り越えることだ。心の中に棘として残る鮮烈な過去を自分なりのやり方で消化し、それを含めた自分の過去を抱えた上で未来へと進む決心をつけない限り人は前へは進めない。そうして忘れるのではなく消化することができれば、心の棘はさまざまな過去のひとつとして心の奥底にしまわれ、時には忘れる瞬間が訪れることもある。
この作品が発しようとしているのは、それにもかかわらずは忘れようとする人々への警句なのかもしれない。テリーはジャックのためを思って忘れることを彼に強い、世間もまた忘れてくれることを願った。しかしジャック自身がそれを忘れられない以上、忘れさせることは彼に苦悩を強いる。明かすことも苦悩なら、忘れようとすることも苦悩、ではどちらを選択すべきか。そこが問題だ。
彼はある種の人身御供となって世間に自分をさらし、自分が十字架を背負い続けていることを明らかにし、それでも生き続ける権利があるのではないかと人々に問いかけるべきだったのかもしれない。それで彼が赦されるとはとても思えないが、彼が社会の中で生きようとするなら、彼を赦そうとしない社会と何とか渡り合っていかなければならないのではないか。それは残酷な考え方かもしれないが、それが今の社会なのだ。
もちろんその社会に対して疑問を呈することは出来るし、それこそがこの作品の最終的な目的なのだろう。過去に犯した罪と未来を生きようという意志、彼を赦すのか赦さないのか、その判断は社会に委ねられている。
現代という社会は一部の人々の意見がマスコミによってセンセーショナルに拡大され、社会全体の合意が出来る前に何らかの判断を下してしまう。私が問題だと思うのはそこだし、この作品が語っているのもそういうことだろう。それはつまり、利益を上げることを第一に考えざるを得ない報道の問題であり、そのような社会が原因だということだ。
ならば結局マスコミが出す性急な結論というのは社会によって出された結論ということになり、それは私たちの結論ということになってしまう。それはつまり社会そのものの高速化、社会というシステムがそれを構成する私たちに追いつけないほどに早く動いてしまい、まるで自動機械のように振舞ってしまっていることの結果だ。
私たちはジャックのような少年にどう接するべきか考える必要がある。しかし同時にその考えが社会に反映されるようなシステムを構築することも考えなければならない。この青年の選択が感動的でありながら絶望的でもあるのは、そのように乖離したわれわれと社会との関係によるものだ。
もちろんそんなことは考えなくても、一人の青年の成長を描いた物語として見ることも出来る。でも、成長とは社会と関わらざるを得なくなることからはじまるのだ。