ガマの油
2009/6/4
2008年,日本,131分
- 監督
- 役所広司
- 原案
- 役所広司
- 中田秀子
- 脚本
- うらら
- 撮影
- 栗田豊通
- 音楽
- タブラトゥーラ
- つのだたかし
- 田崎瑞博
- 江崎浩司
- 近藤郁夫
- 山崎まさし
- 出演
- 役所広司
- 瑛太
- 澤屋敷純一
- 二階堂ふみ
- 益岡徹
- 八千草薫
- 小林聡美
大豪邸に住むデイトレーダーの拓郎は妻の輝美と息子の拓也と3人暮らし。拓也の幼馴染のサブローが少年院から出る日、彼を迎えに行った拓也が交通事故にあい、意識不明になってしまう。その時、拓也の携帯に恋人の光から電話が。真実を伝えられない拓郎はとっさに拓也のふりをしてしまう…
役所広司が監督に挑戦したファンタジックなヒューマンドラマ。
(C) 2008 ガマの油製作委員会
まず観終わっての感想は「惜しい」というものだ。あと一歩ですごい作品になりそうなのに何かが足りないか、何かが多すぎる、そんな感じだ。
まずこの映画の基本的なテーマは欠如/不在。幼馴染のサブローを少年院に迎えに行く途中、拓也は事故に会い、意識不明に陥る。その結果生じる彼の不在が映画の始まりだ。両親にとって息子であり、サブローにとって唯一の親友であり、光にとっては恋人である拓也の不在、この不在からさまざまな不在が明らかになってゆく。サブローの家族や知人の不在、ガマの油売りのエピソードで明らかにされる父親の両親の不在、光の祖母以外の家族の不在。
特に印象的なのは最後まで具体的には明らかにならない光の家族の不在だ。最初の祖母宅のシーンで光は母親について「忙しい」と口にする。しかしその母親が登場することはないし、家に返った光を待っている人もいない。光が用意する夕食はひとり分でアパートの部屋は1Kのようにも見える。
その不在を光は祖母と拓也の存在で補っている。その拓也が不在になろうとするとき、拓郎は図らずもそれを食い止める。その拓郎は両親の不在を子供のころであったガマの油売りの存在で埋めている。但しそのイメージは妻のものと入れ替わっており、実在の存在というよりは魂の中での存在となっているというべきだろう。
その光の両親の不在や、ガマの油売りと妻の一致というあえては語られない部分にこの映画が本当に語りたいものがあるのではないかと思う。そしてそれは“不在の存在”とでも言うべきものではないか。光や拓郎にとっての両親の不在とは、単なる肉体の不在であって、意識の上での存在そのものが不在なわけではない。不在を描くことによってこの物語は存在を描いているのだろう。
その不在の存在というのは死生観に関わってくるものだ。死んでしまった人の存在をどうとらえるか。その極めて日本人らしいあり方がこの作品には投影されている。それを感覚的にとらえることができればこの作品はすっと心に染み入ってくるだろう。
ただ、この作品はそれで終わらず、余計な暗喩的エピソードを織り交ぜてしまう。時間的な飛躍を感じさせるガマの油売りのエピソード(それ自体は必要だが、少ししつこい)、やけに凝ったつくりのCGで見せる熊のエピソード(その途上で描かれる花が咲き乱れるシーンは死後の世界と魂の暗喩を意識させて有効だが)、そしてこれまたCGを駆使したラスト。これらがどうも過剰な感じがして興をそいでしまう。
おそらくメロドラマ的なものからのずらし、あるいはアンチクライマックスということになるのだろうが、このドラマにはそれは不必要だったのではないか。それがなくとも最近の過剰に感動的なドラマとは一線を画しているし、十分に示唆的である。
分割画面を多用したりという技巧も少々うるさい。まあ役者役所広司の初監督作品だからそのあたりは仕方のないことなのかもしれない。もっとなれれば余分な物はそぎ落とされ、本質が浮かび上がるような作品を取れるようになりそうだという可能性は感じさせる。
初監督という気負いが感じられないのが逆に功を奏した感がある佳作だ。
(C) 2008 ガマの油製作委員会