狼の時刻
2009/6/12
Vergtimmen
1966年,スウェーデン,85分
- 監督
- イングマール・ベルイマン
- 脚本
- イングマール・ベルイマン
- 撮影
- スヴェン・ニクヴィスト
- 音楽
- ラーシュ・ヨハン・ワーレ
- 出演
- マックス・フォン・シドー
- リヴ・ウルマン
- イングリッド・チューリン
- エルランド・ヨセフソン
妻アルマの前から突然姿を消した画家のユーハン、妻はしばらく前から夫の様子がおかしかったと語る。ある日、スケッチをしていたユーハンは彼らが暮らす島の地主である男爵に城への招待を受ける。2人は城へと赴くが、そこに待ち受けていたのは奇妙な人たちだった…
ベルグマンの幻想的な世界が極まった感がある心理劇。崩壊してゆく人間の心理を描く手法は圧巻。
ベルイマンの映画は芸術的であるが、その世界は幻想的で理知的に理解するのは難しいものだ。それはそもそも彼が常に人間の精神を題材にしているからであり、精神とは人間の理性の理解よりも深い部分にあるものだからだ。だから彼の映画は常に考えるよりも感じることを観客に迫る。幻想的と見える世界は、観客の精神世界であり、その世界を自分のものとして感じ取ることができればそれは感覚的に理解できるものになるというわけだ。
この作品もそんな幻想的な作品の列に加わるわけだけれど、その幻想が極まり、人間の精神が生み出す幻想という枠を超え非現実的な奇譚の域に達している。混乱した思い出、現実のものとは思えない出来事、現実的ではない人々などが描かれる。
これら自体は主人公ユーハンの幻覚、あるいは頭の中で産み出された人やモノと考えればそれほど不思議ではない。というより不思議ではあるが、彼の精神が産み出した幻想として解釈が可能だし、それが可能なようにベルグマンは伏線を張っている。たとえば、城の奇妙な人々が登場する前に、ユーハンは街の奇妙な人々のスケッチという形で鳥男なんて者をアルマに見せている(画自体は映されないが、ユーハンの絵は背景として移りこむ壁に貼られたスケッチ以外に映されることはない)。ユーハンがアルマに語る過去のエピソードの映像はユーハンの記憶の中でゆがめられている。
それらは過去のさまざま記憶や精神的な重荷によってユーハンの精神が崩壊しつつあることを示しているに過ぎず、彼の経験する出来事にはその崩壊しつつ精神によって生み出される幻覚が現実の一部に混ざりこんでいると解釈することは可能だ。
この作品が得意なのは、そのユーハンの幻覚とも割れる出来事の一部をアルマも共有するということだ。これをどう解釈し、どう捉えるのか。解釈としては、ユーハンの日記を読んだアルマが彼の精神に寄り添うようなものの見方をするようになったという考え方ができる。それは映画を見ている人々がその登場人物の精神に寄り添うよう煮に物を見るようになるのと同じことだ。そう考えればアルマが知らないはずの出来事も物語の一部として描かれていることに説明がつく。
つまり、ユーハンと同時にアルマまでも精神が崩壊しつつある様子をこの作品は描いていると考えることができるわけだ。そしてこの作品が一貫してアルマの視点から描かれていることを考えると、観客がそのアルマの感覚に寄り添うことを期待しているのだろう。
それができるとこの作品は非常に恐ろしい。しかしその恐ろしさを感じるために解くべき心理パズルは難解を極める。私がこの作品を見て感じたのは恐怖と同時に催眠術にかかったかのようなけだるさだった。これはもしかしたらベルイマンの隠れた傑作なのかもしれないと思うが、そう断言するのも勇気がいる奇妙な作品だ。