明るい瞳
2009/7/7
Les Yeux Clairs
2005年,フランス,87分
- 監督
- ジェローム・ボネル
- 脚本
- ジェローム・ボネル
- 撮影
- パスカル・ラグリフール
- 出演
- ナタリー・ブトゥフ
- マルク・シッティ
- ジュディット・レミー
- ラルス・ルドルフ
兄夫婦と田舎の村で暮らすファニーは精神に病を抱えているが、ある日、兄嫁の浮気の現場を目撃してしまう。それを機に居心地の悪さが極限に達したファニーは父親の墓を探しにドイツへの旅に出る…
フランスの新鋭ジェローム・ボネルの長編第2作。アート系というわけではないが、なかなか示唆的でかつ洒落た作品。
精神に病を抱えるファニーは時々幻聴が聞こえる。それを自分の意志で押さえ込みながら何とか生きている。それはかなりつらいことのように思える。彼女は処方される薬とピアノを弾くことで何とかぎりぎり正気を保っているのだろう。兄のガブリエルはその妹のことを気遣っているが、兄嫁のセシルは仕方なく受け入れているに過ぎない。そしてファニーがその兄嫁の浮気の現場を目撃してしまう(さらに目撃したことを兄嫁に気づかれる)ことで、彼女の精神のバランスは崩れてしまう。
彼女は家を飛び出して父親の墓を訪ねようと考え、ドイツ人のオスカーに出会う。この映画は前半でもセリフが少ないのだが、後半は言葉が通じないこともあってほとんど言葉が発せられない。
そこで気づかせられるのは、ファニーが困難を覚えているのが言葉だったということだ。幻聴が聞こえる彼女はどこかで言葉に対して不信感か恐怖心か疑念を持っているのではないか。だから言葉によってコミュニケーションをとることが困難で、それが兄嫁とのすれ違いにつながっているのだろう。
だから、ファニーにとって言葉が通じないオスカーとの関係は逆に楽なものに感じられるのだ。人と人との間に言葉という障壁がなければ、彼女はコミュニケーションに疑念を抱かなくてよい。
人間にとって言葉というのは欠かせないものだけれど、しかしそれはあくまでも人間が作り出したものだ。自然の中に言葉はなく、自然が私たちに語りかけてくるとき発せられるのは言葉ではない。オスカーが暮らす深く美しい森の中の風景から感じ取れるのはそんなことだ。
もちろん私たちは言葉を捨て去って生きることはできない。しかし、言葉に頼り切るのもまた間違っているのではないか。人と人とのコミュニケーションは常に人の心と人の心の間に言葉というメディアが存在している。その困難さを意識することで本来のコミュニケーションのあり方が見えてくる。
言葉は鎧にも武器にも薬にも栄養にも毒にもなる。その毒に犯されてしまったファニーの日常はいわば毒の沼の中を歩き続けているようなものだ。音楽はその毒から一時的にファニーを遠ざけてくれる。そしてオスカーの小屋はその毒が及ばないシェルターになる。
そんなファニーの姿から私たちが感じ取れること、学び取れることは意外と多いのかもしれない。私たちが持つべきは私たちにとっては鎧であったり薬であったりする言葉が彼女にとっては毒になりうるということを感じ取れる感受性だ。この作品はそのことを私たちに思い出させてくれるのだ。