越前竹人形
2009/8/4
1963年,日本,102分
- 監督
- 吉村公三郎
- 原作
- 水上勉
- 脚本
- 笠原良三
- 撮影
- 宮川一夫
- 音楽
- 池野成
- 出演
- 若尾文子
- 山下洵一郎
- 中村玉緒
- 西村晃
- 殿山泰司
- 中村鴈治郎
昭和初期、越前の山村で竹細工を作る喜助、名人といわれた父親が亡くなり、その弔いに美しい女が現れる。喜助はその女玉枝のことが忘れられず彼女の残した手がかりを頼りに彼女を探し出す。遊女だった玉枝を喜助は身請けして里に連れ帰ろうと考えるが…
水上勉の小説を若尾文子主演で吉村公三郎が映画化、山村を舞台にした緊張感あふれる物語。ドラマ化も3度されている。
物語としては非常にストイックだ。物語を構成する要素が非常に少なく、語られる心理も非常に少ない。一目惚れした遊女を妻に迎えるが、なかなか床をともにしようとしない職人とその妻となった遊女、その間に横たわる張り詰めた空気をひたすらに描いているというわけだ。
この作品で一番印象的だったのは映像だ。モノクロの画面、緊張感が常に漂う作品であるだけに、その張り詰めた空気を表現する映像が記憶に残るのだろう。若尾文子を上からとらえたクロースアップのショット、薄暗い竹林の静謐でありながらどこか胸騒がす雰囲気、再会した喜助と玉枝を隔てる一枚の暖簾、それらの映像が持つ意味がこの作品全体を意味づけていくようだ。
作品を構成する要素が少ないだけに、さらにその映像の力が表に出、それゆえに映像の質の良し悪しが作品の質にストレートに影響する。そんな中、この作品の映像は本当に素晴らしい。宮川一夫が名カメラマンであることはもはや議論の余地はないが、彼の作品の中でもこの作品はかなり上位に位置するのではないか。もちろん宮川一夫には『羅生門』『雨月物語』などといった代表作がいくつもある。この作品はそんな作品群に肩を並べるくらいに洗練されていると思う。余分な要素をどんどんそぎ落としていった鋭敏な映像はモノクロだからこそ可能なのかもしれない。宮川一夫はカラー映像も独特の表情があるが、やはりモノクロの鋭さが私は好きだ。
物語はいかようにも解釈できるが、基本的にはエディプス・コンプレックスを基にした物語だろう。母親を知らずに育った喜助が父が贔屓にしていた遊女を嫁にもらう。こんなにわかりやすい構図はない。喜助が玉枝に手を出さないのは彼が初心であるというのと、玉枝をある部分で母親と見ている(実際に喜助は玉枝に母親のような存在だと告げる)のとのふたつの要素によるものだろう。母親と見ながらもそれを欲望する
父親が作った竹人形を破壊するという行為はまさに父を殺し、母を娶るというオイディプスの悲劇そのものをあらわしているだろう。その物語の意味をどう解釈するかというのは心理学者が何百年にも渡ってやってきていることなので、ここに簡単に書くことは難しいが、この“エディプス”を基にした物語が常に私たちの心に何かを投げかけることは確かだ。だからこそ心理学者の議論の対象になり続けているいるわけだが。
そしてこの物語のオイディプスからの「ずらし」をどう解釈するか。「オイディプス」が外見と異なる現実に直面してオイディプスが抱える内面の葛藤を描いた物語であるのに対し、この「越前竹人形」は単純に喜助が抱える葛藤を乗り越えていくという物語だと私は思う。その中で生じる一つ一つの悲劇や偶然や愛情の意味をどう解釈するか、そこは見るもの一人一人の課題だと思うが、そこにどこか日本的なものを感じるのは、この作品の持つ雰囲気のせいだけだろうか?