夜の素顔
2009/8/11
1958年,日本,121分
- 監督
- 吉村公三郎
- 脚本
- 新藤兼人
- 撮影
- 中川芳久
- 音楽
- 池野成
- 出演
- 京マチ子
- 若尾文子
- 根上淳
- 船越英二
- 菅原謙二
戦争中は戦地の慰問に回り、戦後すぐに日本舞踊の高名な師匠に弟子入りした朱実は数年でその小村流を復活させるが、朱実の野望はそれにとどまらず師匠のパトロンを寝取り、独立して菊陰流を創設した。まもなく戦時中の恋人と再会、パトロンを説得して結婚、さらに全国を好演して回るという試みに手をつけるが…
吉村公三郎が新藤兼人のオリジナル脚本を映画化。どろどろとした女の世界。
京マチ子演じる朱実があの手この手で舞踊界での仕上がる。戦後ニッポンを象徴するかのような話で、舞踊に限らずクラブとか芸者とかいろいろなジャンルでこのような物語は多く作られている。
だから退屈かといえばそうではない。脚本は新藤兼人、名監督でもあるが、それ以前に脚本家である新藤の無駄のないシナリオが素晴らしい。この作品のミソは皆が相手を利用してのし上がろうとしているがために、誰もが利用されるという可能性を常に抱えているということだ。しかしそれでも人は人を信用したがり、そして裏切られる。人間の弱さと欲の深さ、それがうまく物語に織り込まれ、物語を推し進める原動力となっているのだ。
ただ、そのような心理が物語の中心にすえられているので、その描き方は難しい。登場人物の心理を言葉に頼ることなく観客に伝えなければならないのだが、同時にその伝え方がわかり安すぎてもいけない。この作品の場合、その心理の伝え方が少々わかり安すぎたというきらいはある。
朱実が師匠を利用しようと考えているその底意、男をたぶらかそうとする仕草、そして若尾文子演じる比佐子が今度は朱実を利用してのし上がろうと考えるその真理、それらが表れる仕草や視線、表情がちょっとわかり安すぎる気がするのだ。
しかし、そのわかりやすい表現が繰り返されるにつれ、それに慣れるのか段々そのわかりやすい表現が楽しみになってくるというところがこの作品の不思議な魅力でもある。終盤の比佐子の仕草などは「あー来るぞ来るぞ」と思っていると予想通りに作られた表情が崩されたり、大げさなアクションをしたりする。それがなんともいえない面白さになっている。
これはもしかしたら、脚本家新藤兼人と監督吉村公三郎の映画に対するスタンスの違いの表れなのかもしれない。おそらく新藤兼人はこの劇の登場人物たちの心理をあくまでも繊細に描き出そうと考えていただろう。利用してのし上がろうとする女と、利用されつつも甘い汁を吸おうとする男、その欲望と弱さに戦後の日本の社会の縮図を見ているのだ。これに対して吉村公三郎はあくまでも映画としての魅力、観て楽しめる女の戦いを追求しているように思える。
今の視点から考えると新藤兼人のストイックな視線のほうが見ごたえがありそうな気がするが、映画が娯楽であった時代には吉村公三郎のやわらかさが求められていただろう。
吉村公三郎と新藤兼人が組んだ作品というのは少なくないが、どこか対照的にも見えるところが実は相性がよかったのかもしれない。