エッセネ派
2009/9/13
Essene
1972年,アメリカ,89分
- 監督
- フレデリック・ワイズマン
- 撮影
- ウィリアム・ブレイン
- 出演
- ドキュメンタリー
ミシガン州にあるアングリカン・ベネディクト派修道院、修道院長は神父たちとのミーティングで修道院の方針について話し合う。一方、修道士たちは集まってそれぞれが祈りを捧げるべき人物を挙げ、それぞれに祈りを捧げる。
厳格な修道院という場で繰り広げられる人間ドラマと、信仰の場であると同時に組織でもある修道院の運営の難しさを描いた作品。ワイズマンには珍しく宗教を正面から扱っている。
この作品にはふたつのドラマがある。ひとつは修道院長を中心とする修道院全体のドラマ、もうひとつは修道士の一人であるリチャードのドラマである。
映画は修道院の日常の風景で始まり、すぐに修道院長を中心とするミーティングのシーンに移る。そしてそのシーンで修道院長は修道院長の大きな権力を否定し、今開かれているこの神父(ファーザー)たちの会議が協力して修道院と修道士たちに対して責任を取るべきだと語る。ここには非常に大きな問題がある。修道院というのはもちろん信仰の場であるが、人々が集まっている以上は外の世界との関係においてひとつの組織でもある。それはつまり、その組織の運営という問題が存在し、ただ純粋に神への信仰だけを問題にしていればいいというわけではないということを意味するのだ。
しかしもちろん修道院長は信仰の面でも指導者である。神父たち修道士たち、そして信徒たちを神の道へ導くと同時に修道院の運営もやらなければならない。修道院長はそれに対して何か苦悩を見せるわけでもなく、運営の才能があるからこそ修道院長になったのではないかとも思わせるくらいにそつなくこなして行く。神父たちに対するときの口調と一般信者たちに対するときの口調は明らかに違い、彼は修道院を運営して行くということをサービス業であるかのように考えているようだ。
しかしもちろん面倒もある。その例としてあげられるのが1人の年老いた神父との会話だ。彼は「ファーストネームで呼ぶこと」について修道院長に議論を吹っかける。それはまったくどうでもいいことのようにも聞こえるが、その瑣末なことごとが信仰にとっては大事だということもわからなくはない。修道院長はこの議論をまともには受けずにその神父に投げ返す。まぜっかえすのではなく投げ返すことで相手を黙らせるのだ。そしてそのようにしているということを面と向かっていう。
このシーンなどからは修道院長が信仰の問題よりも運営の問題により大きな力を注いでいるということが見て取れる。果たしてそれがいいことなのか悪いことなのかは分からないが、それが現代的な修道院や教会にとっては必要なことだということはよくわかる。
しかし、ワイズマンはこの修道院長を映すとき必ずと行っていいほど十字架を一緒に映す。何度かシーンの最後に修道院長の胸元にかかるロザリオにティルトダウンし、演説のシーンでは斜めの角度から撮影して背後にある十字架がきっちりと見えるようにしている。これは一体何を意味しているのか。私にはこの露骨な十字架の反復は彼に象徴される現代のキリスト教会の性質について考えるように、観客に問いを投げかけているのだと思う。それは単純な信仰の問題ではない。宗教と社会の関係についての問題である。
それに対して若い(とは限らないが)修道士たちはとにかく信仰の問題に没頭している。彼らは信仰を人々に広める役目を追っているわけではなく、ただひたすら自分の親交を深めていくことを責務としているのだ。彼らが最初に登場するミーティングの場面でも、彼らは会話をしているようでいて一貫して自分に対して問い、他からの問いには答えようとしない。彼らはすごく浮世離れしているが、それこそが修道院というもののイメージに合致する。
そして、その最たる例がリチャード修道士である。この作品の中盤あたりに登場する彼は庭で修道女のひとりと会話をしている。リチャード修道士は他の修道士との関係に悩み、涙を流しながら語る。その会話は非常に感動的だ。そして彼は最後のシーンでひとつの物語を語る。それは“愛するもの”と人々(社会)との関係を象徴的に表す物語である。そこには彼の深い部分にある心情が吐露され、最後に彼は崩れ落ちる。話を聞いていた人々は彼を慰め、歌を歌い、彼を励まし続ける。
この作品はほとんどが会話によって成り立つ作品である。ワイズマンの作品にはそのようなものが多いが、それは多くの場合群衆の、無名の人々の会話であり、会話によって彼らが動き回るインスティチューションについて明らかになって行くというものである。しかしこの作品では2人の人物にスポットが当たり、この両極端ともいえる2人の姿を追うことで、教会という抽象的なものの姿を明らかにしようとしている。基本的なコンセプトという点では他の作品と共通しているが、そのアプローチはかなり違っている。
この作品はドキュメンタリーとしては6作目であり、まだ方法論が固まっていなかったと見ることも出来るかもしれないが、わたしにはこの作品のでき方から教会というものが人間によって出来上がっているのだというワイズマンのメッセージが読み取れるような気がする。他の作品では組織の入れ物としての建物が必ず移され、構造物と人間の組織がある意味で有機的に結合したものとして扱われていることが多いが、この作品には建物はまったく登場しない。登場するのはせいぜい庭で修道院自体は映らないのだ。このことから推測できるのは、修道院という組織は建物に宿るのではなく人に宿るということだ。信仰を持つ人が集まれば、建物などなくても修道院はできる。こんな風に書くとなんだか原理主義的という気もするが、本当に修道院がそのようなところだとしたら、宗教というのも捨てたものではないという気がしてくる。