六ヶ所村ラプソディー
2010/5/10
2006年,日本,119分
- 監督
- 鎌仲ひとみ
- 撮影
- 大野夏郎
- 松井孝行
- フランク・ベターツビィ
- 音楽
- 倭〔小山内薫、永村幸治、柴田雅人〕
- ハリー・ウィリアムソン
- 出演
- ドキュメンタリー
核燃料再処理工場が建設された青森県六ヶ所村、いよいよウラン試験がはじまり、微量ながら放射能が排出されることになった。その六ヶ所村でチューリップを作る菊川さんは長年再処理工場に反対を続けてきた。しかし他の人々はもうたってしまったものに関心はなく、むしろ雇用が安定することを歓迎していた。
「ヒバクシャ――世界の終わりに」の鎌仲ひとみ監督が原子力問題を正面からとらえた社会派ドキュメンタリー。人々の表情が印象的。
青森県六ヶ所村に立てられた核燃料再処理工場、まだ本格稼動はしていないが、試験運転によって日々放射線物質が排出されている。この映画がとらえるのは、最初に放射線物質が排出されることになったウラン試験を迎えるとき。チューリップを育てながら反対運動続ける菊川さんが家々をまわっても冷淡な反応が返ってくるばかりだ。
この映画を貫く感覚は無力感だ。目の前に厳然とある巨大な施設。こんな施設ができてしまってはもうどうにもならない。電気は必要なのだから、この施設も必要に違いない。原燃(再処理工場を運営する会社)がなければほかに仕事なんてないんだから仕方がない。そんなあきらめがずっと漂っている感じだ。
見ているほうも、この再処理工場が稼動してしまうことに疑問を感じざるを得ないのだけれど、だからどうすればいいのかということを考えると途方にくれてしまう。だからタダひたすらに無力感を抱きながら人々の姿を見つめ続けなければならない。
それでも映画の後半になると、東大の先生が出てきたり、再処理工場で事故が起こってしまったイギリスを訪れたり、色々なことが起こり考える材料が増えていくので、無力感に押しつぶされることはない。
反対している人ばかりではなく、再処理工場で食を得ている人々もちゃんと登場し、彼らなりの考えを語っているのもいい。もちろん、「反対」というフィルターを通して彼らを眺めているのでどこかで彼らの発言や考え方のあらを探すような味方になってしまってはいるのだが、彼らには彼らなりの考え方があり、彼らも違う形ではあるが無力感を感じているということがわかる。
そんな人たちがこの映画の最大の魅力だ。どんな社会問題を描こうとその中心にいるのは人であるべきで、それがしっかりと表現されている。
一番印象的だったのは、十何年も六ヶ所村の近くの村で無農薬でお米を作っている農家の女性だ。彼女は変わらぬ努力を続けているのに、再処理工場が稼動することで放射性物質が降り注ぎ、これまで信頼して買ってくれた人たちに安心してお米を売れなくなってしまう。彼女は本当に自分の作る米を愛し、それを買ってもらえることを喜んでいたのに、自分にはそうすることもできない理由からそれを奪われてしまう。「本当に残念ですが、買うのをやめる」と書かれたお客さんからの手紙を読むときの彼女の表情は本当にいたたまれない。
こういった被害などというものは国のエネルギー政策全体から考えたらビビたるものかもしれない。何十年も再処理工場を動かしてきたイギリスの漁師は「イギリスでは漁業はGDPの1%にも満たないから無視される」と語る。
「原子力には反対だ」とはっきりと明言し、我慢できるところは我慢する。米農家の女性が言うように「中立ではダメ」なのだ。反対運動をする必要はないけれど、反対していることをはっきりと表明し、微々たるものであっても何らかの行動をとる。日々ちょっとでも省エネをする、自然エネルギーを使った発電が広まるのに手を貸す、この問題について考えてくれるよう周りの人たちを動かす、そんな小さな行動でもやらなくちゃ!とこの映画は思わせてくれる。
そのような主張が、説得的に説明されるのではなく、直接それに触れる人々の言葉や表情から伝わってくる、それがこの映画の最大の魅力だ。そして、その言葉にならないメッセージの伝え方が非常に映画的でもある。こういう社会派のドキュメンタリーというのはどうしても説教臭くなってしまいがちなのだが、この作品はそれをまく避け、いい意味で人間臭い作品に仕上がっている。常に無力感を感じ続けなければならないつらさはあるが、しかしいい映画だ。