
アヒルの子





2010/6/15
2005年,日本,92分
- 監督
- 小野さやか
- 撮影
- 山内大堂
- 音楽
- 小倉里恵
- 出演
- 小野さやか

カメラの前で「死にたい」と語る一人の女性、監督でもある小野さやかは5歳のときに1年間ヤマギシ会に預けられ、それを親に捨てられたのだと思って「二度と捨てられない」ために15年間を生きてきた。家を出て映画の専門学校に入った彼女は、その呪縛から逃れるためにカメラを伴って家族と対峙することを決める…
監督の小野さやか20歳の時に自分の過去と家族との関係を修復するために記録した映像を6年の歳月を掛けて映画化した作品。さすがにリアルで面白い。


2人の兄と1人の姉がいる4人兄妹の末っ子、両親も健在で子供のころには祖父母もいた。そんないかにも幸せな家庭だが、彼女には忘れられない心の傷がある。「親に捨てられた」という記憶、その記憶のために彼女はその5歳の経験以後15年間を「捨てられない」ために費やしてきた。それゆえに「本当の自分」との間で乖離が生じ、「自分なんて生きていてもしょうがない」と考えるようになった。そんな彼女がそれではいけないと自分の心の中のわだかまりになっていることを解決しようと家族の一人一人と本音で語り合う旅に出る。
この映画は凄くよくできた映画で、最初の据え置きの自家撮りの画像からすうーっと映画と主人公の監督小野さやか自身の心に吸い込まれていってしまう。そして、そのまま映画を観すすめるにつれて、「私」が経験する「きつさ」に寄り添い、それを追体験することになってゆく。その体験はきつくはあるんだけれど、心の棘を一つ一つ抜いていくという体験は心地よくもあり、その心地よさが積み重なって、最後にはカタルシスにも似た気持ちよさを味わうことができてしまうのだ。
その理由のひとつはきっちりと作りこまれている映像だろう。ドキュメンタリー、しかも20歳の監督が映画学校の卒業制作として作ったという作品でこれだけ完成度が高いというのは驚きだが、「私」に同行し、すべてを記録したカメラマンの山内大堂は作品中で「友だち」と言及されているように同じ映画学校出身で、今はカメラマンとして活躍している。
もうひとつの理由は彼女が克服していかなければならない家族との出来事が、言い方は悪いがある意味キャッチーであるということだろう。単に両親から無視されたというのではなく「ヤマギシ」という対象が存在すること、またもうひとつ衝撃的なエピソードとして長兄による「いたずら」が暴露されること、そしてさらには他の2人の兄・姉との関係、それらは多くの人が興味を魅かれる要素を持っている。
それが組み合わさり、さらには「私」が失われた過去を求めて旅をするという要素が加わることで次々と新たな刺激が供給され続けることになり、最後まで興味を失うことなく観ることができる。
この映画の最大のポイントは「トラウマ」ということだろう。生きていく意味を見出せない若い女性が、それを克服するために自分のトラウマに向き合い、それを克服するために旅に出る。家族に一人ずつ会い、故郷に帰って行く旅は、心の表層から深層への旅とパラレルであり、一人の人に会い、ひとつの場所を通過することが、意識の層をひとつ通り抜け、心の棘をひとつ抜いていくことである。そのようなトラウマの克服の仕方があまりにリアルに描かれていること、それが見る人をひきつける。
そしてその旅路を主人公とともに歩むことは「自分の存在価値を見つける」ことのバーチャルな体験である。価値とか存在というものが不確実な社会の中で、ひとりの若者がそれを見つけることができた瞬間に立ち会えるというのが、この映画のカタルシスなのである。この映画が観ている人の心にわだかまっている何かを解決することはないかもしれない。しかし、それをバーチャルに体験することで、その何かと向き合うきっかけになるかもしれない。
自分自身を赤裸々に語った非常に私的な映画でありながら、観る人が自分にひきつけてみることができるという普遍性も持つ。非常に完成度の高い私ドキュメンタリー映画だ。

