僕の心の奥の文法
2010/10/23
Hadikduk Hapnimi
2010年,イスラエル,110分
- 監督
- ニル・ベルグマン
- 脚本
- ニル・ベルグマン
- 撮影
- ビニヤミン・ニムロッド・チラム
- 音楽
- オンドレイ・スウクープ
- 出演
- ロイ・エルスベルグ
- オルリ・ジルベルシャッツ
- イェフダ・アルマゴール
- エヴリン・カプルン
- ヤエル・スゲレスキー
1963年のイスラエル、団地に両親と祖母と姉と暮らすアハロンはなかなか背が大きくならないことに悩む繊細な少年。ある日、同じ団地に住む独身女性の家に友達と忍び込み、アハロンはその部屋にある絵画や本に魅せられてしまう…
60年代のイスラエルという特殊な状況で過ごす少年時代を情緒豊かに描いた秀作。瑞々しい少年の感覚を見事に映像で表現している。
少年時代を描いた映画というのは枚挙に暇がない。特に、戦争のような特殊な状況を描くのにそれを大人の目線ではなく子供の目線で描こうという作品は多い。この作品も1963年という中東がまだまだ混乱の中にあった時代を舞台にしているだけに、そのような作品のひとつなのかと思って見始めた。
しかしこの作品は違った。この作品は「少年時代」を描いているのではなく、少年の感覚や情動を描いた作品なのだ。「少年時代」を描くのなら少年が経験する出来事を描き、少年が感じる違和感を言葉にし、それを大人の視点から見つめなおすように促せばいい。しかし、少年の感覚や情動を描くには、言葉ではなくイメージによる表現が必要になる。少年アハロンが感じていることを観客が感覚的に捉えることができるような表現をしなければならないのだ。
映像にはそれができる力があるわけだが、イメージは言葉よりもはるかに解釈の幅が広いだけにそのような感覚を余すことなく伝えるというのは非常に難しいことなのだ。だから、そのような体験が可能になる瞬間が訪れると、その映画は輝く、あるいは匂い立つ。映画をその意味を考えながら見るのもいいが、そのように映画が匂い立つ瞬間に立ち会うというのは何物にも変えがたい悦びがある。
そしてこの映画にはそのような瞬間がある。それを可能にしているのはアハロンの一人称的な視点、そして彼の孤独な行動ではないだろうか。たとえば彼は近所に住むミス・ブルムの家にたびたび忍び込み、本を借り、絵画の後ろの壁に自分の慎重を刻む。少年が近所の美しい一人身の女性の家に忍び込むというエピソードは性的な体験を想起させるが、アハロンがいる間にミス・ブルムが帰ってきて、アハロンが別途の下にもぐりこんでも、彼は彼女の裸を見ることもない。さらにはそもそもアハロンが忍び込んでいることはばれることはなく、アハロンもそのことを友達にすら言わない。この一連の行動の中で彼が感じるスリル、そして彼がたびたび忍び込む裏にある心情、それらは説明されることはないが感じ取ることができるし、しかもそれは彼だけが誰とも共有することなく抱えているものなのだ。それによって観客はアハロンを感じることができるのだ。
あるいは、アハロンが青年団に入るための試練に立ち向かうシーン、一度は成功したのに彼はもう一度挑戦するといってその輪を抜ける。そのとき彼はいったい何を感じ、何を期待していたのか。彼自身は「わからない」というが、観客には彼の心理が手に取るように分かる。彼自身にも言葉にできない衝動を感じ取ることができるのだ。
彼の心はさまざまな矛盾を抱え、彼はそれをうまく言葉にすることができない。その苛立ち、その不安感、その優越感、それらがない交ぜになった彼の中のカオス、観客をそれをカオスのままでしかし受容できる形で受け取ることができる。
アハロンは2つの脳というイメージを抱き、ごちゃごちゃで収拾がつかなくなった自分の頭の中を整理して自分のもうひとつの脳に移植しようと夢想する。このイメージこそがこの映画のイメージであり、それはまさに思春期の少年の頭の中のイメージなのである。
60年代前半のイスラエルという時代設定はあるが、偉大と国にかかわらず普遍的に感受できる秀作。