
フラミンゴNo.13





2010/10/31
Flamingo no.13
2010年,イラン,80分
- 監督
- ハミド・レザ・アリゴリアン
- 脚本
- ラスール・ユーナン
- 撮影
- エスマイル・アガジャニ
- 出演
- ラスール・ユーナン
- バラン・ザマニ
- モハマド・タギ・シャムス・ラルガルディ
- アブドッラ・アミル・アタシャニ

イランの山間、追放された犯罪者が村人たちに混じって暮らす村。人を殺したとされて村に送られた男スレイマンは禁じられたフラミンゴ猟に取り憑かれ、結婚してからも度々行方不明になっていた。そしてまたスレイマンがいなくなったある日、海辺で猟銃が発見され、村人たちはいよいよスレイマンは死んでしまったと考えるが…
イランの壮大な風景の中で展開される暗喩に満ちたドラマ。イランという国について考えないと意味がわからない。

最初から、目下に雲海が広がる壮大な風景が映し出される。イランというとテヘランのような都市か、短い草がまばらに生えている砂漠のような土地を思い浮かべるが、実は海があり、山があるバラエティに富んだ自然を持つ国なのだ。そのイランの相当な山奥にあるらしい村。そこには犯罪を犯して島流しならぬ山流しになった人々と普通の村人たちがともに暮らしている。
その中のひとりスレイマンは殺人を犯したとされてこの地に送られて来たのだが、誰もその事を信じていないような善人である。しかし彼は禁じられたフラミンゴ猟に取り憑かれた男でもある。
物語はこのスレイマンがフラミンゴを追ってついに行方不明になる事件を中心に、その妻のタマイとタマイに横恋慕するダウード、そして同じく村で暮らす詩人の”先生”を中心に展開される。
といっても言ってしまえば何の物語も展開しない。スレイマンは行方不明になり、タマラは彼を信じて待ち、ダウードはスレイマンは死んだと言ってタマラに迫る。ただそれだけだ。
この映画が言わんとしていることを推し量るには、イランという国の事情を知らなければならないだろう。アメリカに”悪の枢軸”などと名指しされる国だが、”悪”かどうかの真偽はともかく、厳格なイスラム教の教えによって国を運営する方針を取っているイランの社会は私たちの考える社会とはかなり異なった社会であることは間違いない。政治犯もいるし、言論統制もある。映画制作も自由ではなく、内容は検閲される。
そんなイランにおいて、スレイマンの「フラミンゴを狩る」という行為はどんな意味を持っているのか。フラミンゴはつまり禁じられたもの、冤罪で流刑にされたとほのめかされているスレイマンに取っての禁じられたものとは「自由」に他ならない。スレイマンはその自由を追い続け、ついには”境界”を越えて何処かに行ってしまうのだ。
タマラがそのスレイマンが帰ってくると信じているのは、彼が逃げたのではなく、何かを求めているだけだと知っているからだろう。彼は禁じられた自由を手にし帰ってくるはずだと。
”先生”もその事を知っている。だから彼はスレイマンを詩に読む。そしてもう刑期が終わっているはずなのに村に留まる彼はスレイマンに希望を託しているのだろう。たとえ村をあとにしたとしても、もはや自分は手に入れることのできない自由をスレイマンなら手に入れてくれるはずだと。
と、そんなことを考えてみたが、この映画が本当にそう言おうとしているのかはわからない。しかしイラン映画はキアロスタミやマフマルバフの時代から検閲と戦って来た。この映画もそれをしているのだと考えれば、「自由」を題材にしていると考えるのが自然だという気がするのだ。