間諜最後の日
2003/2/23
The Secret Agent
1936年,イギリス,87分
- 監督
- アルフレッド・ヒッチコック
- 原作
- サマセット・モーム
- 脚本
- チャールズ・ベネット
- 撮影
- バーナード・ノールズ
- 音楽
- ルイス・レヴィ
- 出演
- ジョン・ギールグッド
- パーシー・マーモント
- ピーター・ローレ
- マデリーン・キャロル
- ロバート・ヤング
偽りの葬儀も行われ、戦死したことになったイギリスの諜報部員アシェンデンは、敵国のスパイがコンスタンチノープルに行くのを阻止するという新たな任務を与えられる。任務の地スイスについてみると、そこには夫人役のエルザという女性が待ち受けている。そのエルザと助手の“将軍”を含めた3人で件のスパイを見つけ出し、処理するという任務を開始するのだが…
第二次世界大戦直前という時期に作られた第一次大戦を舞台にしたスパイもの。とはいえ恋愛の部分がクロースアップされ典型的なヒッチコック映画とは少々異なる味わい。
映画の前半はものすごいスピードで映画が展開していく。一瞬のカットで事情を説明し、どんどん話を展開していってしまうのはヒッチコックの真骨頂という感じでいい。しかもセリフも何を言っているのかわからなくなってしまうような早口加減でまくし立てる。このスピード感がずっと続けば、この映画はものすごい映画になっていたと思う。
しかし、そのスピード感が持続するのは、前半のハイライトとも言える山の上でのシーン。この前半のクライマックスに緊迫感は頂点を迎えるが、まだ映画が始まって30分ほど仕方っていないことを知る観客はそれが本当のクライマックスではないということを了解してしまっている。
その後この映画はなんだかヒッチコックらしくない泥沼へとはまっていく。典型的なヒッチコック映画というのは主プロットとしてサスペンスがあって、そのサスペンスは映画を通していくつかの山を経ながら最後に向ってどんどんと盛り上がっていく。それこそがサスペンスの王ヒッチコックのヒッチコックたるゆえんである。そして同時にサブプロットとして恋愛が描かれる。美女が登場し、主人公と恋に落ちる。これもまたヒッチコックらしさで、あらゆる人を映画にひきつけるためには不可欠の要素だ。
ヒッチコックらしい映画というのはこの主プロットとサブプロットのバランスが見事で、恋愛がサスペンスを邪魔せず、むしろ盛り上げるような役目を果たす。『裏窓』なんかがそのいい例だが、恋愛がサスペンスに飲み込まれるようにして最後には映画全体が大きなうねりとなって観客を引き込んでいく。それがヒッチコックの映画なんだと私は思う。
しかし、この映画は前半のクライマックスの山でのシーンを境に、サブプロットだったと思われていた恋愛がどんどん主プロットであるはずのサスペンスを侵食していく。恋愛のいざこざがサスペンスの展開を揺り動かし、サスペンスとしてのまっとうな筋立てからどんどん映画を引き剥がしていく。
「これはナンだ?」と私は思う。「これはヒッチコックではない」と私は思う。私がヒッチコック的なるものをあまりに型にはめすぎたがゆえにこの映画を受け入れられなかったのか、それともヒッチコックのひとつの試みが失敗に終わったということなのか。どちらにしても、私はこの映画に入り込めず、ヒッチコックを感じられず、サスペンスとしての面白みを十全に味わうことは出来なかった。
この映画の面白さはと聞かれたら、前半部分のヒッチコックらしさと緊張感と答えるか、“将軍”のキャラクターの面白さくらいしかあげられないかもしれない。
それもこれも第二次世界大戦を前にしたイギリスの国威高揚のためなのか。最後に「イギリス軍の栄光」的なエピローグじみたシークエンスが挿入されるところを見ると、どうも第一次大戦の輝かしい過去を振り返って、国民を第二次大戦に動員しようというような意図が見え隠れする。
どうもヒッチコックという人は愛国心が強いのか、体制に順応しやすいのか、頼まれると断れないのか、このように権力迎合型の映画を撮りがちなような気がする。映画作家=革命家である必要はないので、もちろんかまわないのだけれど、なんとなく違和感も覚えてしまう。政治的になるよりも、時代の空気を察知して、大衆のために安価な楽しみを提供しようという姿勢で、体制に批判されないような、むしろ進んで受け入れられるような作品を作っていたのだと私は考えたい。ヒッチコックとはそのような大衆の娯楽を大切にする考え方を持っていたのだろうと私は思っている。