軽蔑
2003/2/28
Le Mepris
1963年,フランス=イタリア=アメリカ,102分
- 監督
- ジャン=リュック・ゴダール
- 原作
- アルベルト・モラヴィア
- 脚本
- ジャン=リュック・ゴダール
- 撮影
- ラウール・クタール
- 音楽
- ジョルジュ・ドレリュー
- 出演
- ミシェル・ピコリ
- ブリジット・バルドー
- ジャック・パランス
- フリッツ・ラング
劇作家のポールのところにプロデューサーのプロコシュから仕事が来る。それはフリッツ・ラングが監督する作品『オデュッセイア』をもっと一般向けのものにするという物だった。打ち合わせのあとプロコシュの自宅に招かれたポールと妻のカミーユ。カミーユをプロコシュの車で先に行かせ、ポールが遅れてプロコシュの家に行ってみると、カミーユはポールにひどく腹を立てていた。
ゴダールとブリジット・バルドーという組み合わせは違和感があるが、映画を見てみると、その違和感もなくなる。難解というイメージがあるゴダールとは少し違うゴダール。
この映画は確かにゴダール。映像を見ていれば、それはゴダールで、映画の展開の仕方もゴダールで、フリッツ・ラングの吐く言葉の重厚さもゴダールである。ポールの部屋の赤の彩で統一されたインテリア、その赤の鮮やかさにゴダールの色彩へのこだわりを思い、『中国女』を思い出す。それに対して、プロコシュの別荘の青の彩で統一されたインテリア。そして海の青。その色の対比は何を意味しているのか。
この映画は物語がしっかりとしている。ひとつの謎解き。ポールはなぜカミーユの愛が醒めてしまったのかわからない。見ているわれわれもわからない。今まで激しく愛し合っていたその相手を、自分はまだ愛しているのに、相手からは愛されていないという現状、その焦燥感だけは伝わってくるが、なぞは解けぬまま、これをといていく一種のサスペンスかとも思うが、ゴダールなのでその答えは用意されていないではないかという疑惑も頭を離れないまま映画は進んでしまう。
この映画を撮ったころ、ゴダールはアンナ・カリーナとの関係に悩んでいたらしい。そのゴダールの焦燥感が映画に投影されたのかも知れない。それは、非常にゴダールらしいという印象(どのへんがゴダールらしいのかということは説明しずらいが、『カルメンという名の女』に登場したゴダールの表情を思い浮かべると、ゴダールの映画とはゴダールの心情の吐露なのではないかという気がする)。
しかし、この映画はブリジット・バルドーの映画かもしれない。ゴダールはヌーヴェル・ヴァーグの旗手、映画の革命者として映画の文法の部分が強調されることが多いけれど、女優の魅力を引き出すことにかけてもかなりの名手である。もちろん妻であるアンナ・カリーナがその筆頭だが、この映画のブリジット・バルドーもかなりすごい。ブリジット・バルドーが映っているだけでそのシーンはバルドーのシーンになってしまう。そのあまりに大きな存在感。だからこそ、われわれはポールの焦燥感を共有できるのかもしれない。
ゴダールとブリジット・バルドーが合わさった映画、あるいはゴダールとバルドーに分裂した映画。ゴダールに視線をやるか、バルドーに視線をやるかによって映画の見え方は変わってくる。あるいはフリッツ・ラングに。フリッツ・ラングの存在は微妙/絶妙だ。
ゴダールのレビューはいつもまとまりませんが、今日はいつもに増してまとまりません。とにかく、バルドーは魅力的。です。