知りすぎていた男
2003/4/29
The Man Who Knows Too Much
1956年,アメリカ,101分
- 監督
- アルフレッド・ヒッチコック
- 原作
- チャールズ・ベネット
- P・B・ウィンダム・ルイス
- 脚本
- ジョン・マイケル・ヘイズ
- アンガス・マクフェイル
- 撮影
- ロバート・バークス
- 音楽
- バーナード・ハーマン
- 出演
- ジェームズ・スチュアート
- ドリス・デイ
- ブレンダ・デ・バンジー
- バーナード・マイルス
- ラルフ・トルーマン
モロッコからマラケシュへのバスの中、ベン・マッキノン夫妻と息子ハンクがアラブ人に文句を言われているところをフランス人のルイ・ベルナールが助ける。夫妻はベルナールと親しくなるが、ジョーはベルナールを怪しんでいた。翌日レストランで知り合ったドレイトン夫妻と市場の見物をしているところでアラビア人に変装したベルナールが何者かに殺され、死ぬ間際ベンの耳に秘密のメッセージをささやいた…
イギリス時代の作品『暗殺者の家』を自らリメイクしたヒッチコックの代表作の一つ。基本的なプロットは同じだが、ドリス・デイが歌手として出演することでがらりと雰囲気の違う作品になった。
この映画、いわずと知れた名作なわけで、いまさらここがいいとか、あそこがさすがとかいっても仕方がないので、イギリス時代の『暗殺者の家』と比較してみて見ましょう。
『暗殺者の家』が作られてから20年とちょっと、ハリウッドでも名声を得たヒッチコックは潤沢な資金で自分の作品をリメイクする。白黒がカラーになったり、セットではなくロケで撮影できたり、たくさんのエキストラが使えたりという違いもあるが、重要な違いと言えるのは仕掛けの複雑化とドリス・デイの存在。
『暗殺者の家』では見え見えの犯人と見え見えのプロットが映画の最初から予想できたが、この映画では陰謀を働く側の構成を複雑にし、仕掛けが見えにくくしてある。『暗殺者の家』ではピーター・ローレが悪役として光るものを見せ、映画全体がそこに引っ張られるように展開していたが、この映画では正統的にマッキノン夫妻のほうにスターを配し、主人公が主人公として物語を展開していくようになっている。それによって敵の構造を見えにくくし、何が起こるかわからないような展開をうまく作り出していると思う(ただ、アルバート・チャペルと聞いて人名だと思うのはちょっと強引かも)。なので、終盤のシーンには『暗殺者の家』よりも緊迫感が出ていいと思う。『暗殺者の家』の緊迫感のない銃撃戦もそれはそれで面白くはあったのだけれど、正統なサスペンスという点で言えば、この映画の緊迫感のほうが数段上。
もう一つのドリス・デイ、『暗殺者の家』では奥さんはクレー射撃の名手という設定、今度は歌手。この役柄が物語の上で重要になるという設定は同じだけれど、クレー射撃と歌ではやはりそれが持つ魅力が違いすぎる。しかもドリス・デイ、しかも“ケ・セラ・セラ”。サスペンス映画では音楽や効果音が非常に重要な役割を果たすことは『サイコ』なんかを見るまでもなくわかることだけれど、この映画の音楽の重要さはそのような物語を盛り上げることにとどまらず、映画にとって最も重要な要素の一つと言えるまでになっている。ホテルの最初の日、ハンクとジョーがふたりで歌う“ケ・セラ・セラ”、これが本当に素敵。今となってはクラッシック、誰もが聞いたことのある歌声だけれど、本当にうまいし、曲もいい。それはこの映画の本当の主人公がドリス・デイであることを明らかにして、これがドリス・デイの映画であるということを納得させる。しかも、この歌が伏線になって…
ということで、さすがに『暗殺者の家』よりも映画的な魅力が盛りだくさんになったということですが、それでもアラブの描き方のつたなさとか、アラブ人といいながらどう見てもアメリカ人がアラブ人の格好をしただけにしか見えないという不満はありますが、新しいとは言ってもまだ50年代の話、アラブに対するエキゾチックな興味は尽きなかったわけで、そのあたりのアメリカ人の好奇心もを満たしてやろうという意図もあったのではないかと思います。その歪んだアラブ人像がオリエンタリズム的な偏見を植えつけてしまったというのはまた別の話。別の文脈で話をすることがあるでしょう。
今日のところは、ドリス・デイに尽きるということで。“ケ・セラ・セラ”とは私の人生観にもぴったりと来ます。