秋刀魚の味
2003/10/21
1962年,日本,113分
- 監督
- 小津安二郎
- 脚本
- 野田高梧
- 小津安二郎
- 撮影
- 厚田雄春
- 音楽
- 斎藤高順
- 出演
- 笠置衆
- 岩下志麻
- 佐田啓二
- 岡田茉莉子
- 三上真一郎
- 中村伸郎
- 北竜二
- 環三千世
- 東野英治郎
- 杉村春子
- 加東大介
- 岸田今日子
- 三宅邦子
平山周平は妻を亡くし、子供は3人ある。長男の幸一は既に独立し、長女の路子が家を取り仕切る。会社で部下が結婚するという話を聞き、竹馬の友の河合から娘の見合いの話を進められても、「いやぁ、まだまだ」といっていた。しかし、中学時代の教師“ひょうたん”を同窓会に呼び、話を聞いたところから様子が変わってくる…
『晩春』と同様に父親と嫁に行く娘をテーマに描いた小津の遺作。かなり豪華なキャストが集まり、渋い配役で面白いドラマになっている。
小津の映画は必ず人のいない風景ショットから始まる。この「無人」の感じが無数にある小津らしさのひとつでもあり、静謐さを生む理由にもなる。この冒頭の風景ショットに限らず、小津映画にはシーンの変わり目に物語とは関係のないカットが挟み込まれることがかなりある。この映画でもそうで、1つのシーンが終わってから次のシーンが始まるまでの間を余韻ともいうべきなんでもないシーンがつなぐ。
例えば笠置衆が結婚の話を部下としているところに書類を持った別の部下がやってくるシーンがある。その書類を持ってきた部下というのは特に物語には関係ない人物で、結婚の話をしている部下が去ったあと、書類を持った部下だけが残る。普通はそこでそのシーンは終わり、次のシーンにつながるわけだが、この映画では笠置衆は部下に書類をもらい、それを読む。そしてそれを読む手のクロースアップが10秒くらい続いてからそのシーンは終わる。
この10秒という間が小津らしさ(あるいはいわゆる日本映画らしさ)と考えられるわけで、私は今までそれを余韻であると考えていた。それはつまり見る側がそのシーンに起こったことを解釈するための時間であると。それはつまり、そのカット自体には意味はなく、ただそれが持つ時間だけが意味があるということだ。もちろんどんなカットでもいいというわけではないが、前のカットから自然につながる余韻であればどんなものでもいいということだ。
しかしこの映画を見て感じたのは、この余韻らしきものは映画を文章に置き換えたならば「語尾」にあたるものだと。「~だろう」とか「~ではないか」とか「~ジャン」とか、そういった語尾であって余韻ではない。それはつまりそのカットには確実に意味があり、それは言葉にならない何かを表現していて、そして同時に小津の刻印を押している。
そしてこの映画は文章にとって語尾がいかに大切かを存分に表現している。たくさんの名優たちの演技もすばらしいが、映画が小津映画になるためには全く演技などしない「無人」の語尾も必要なのだ。この小津の遺作が小津映画という1つの映画史の余韻ではなく、「これが小津だ」という強烈な語尾となったのは、1カットたりとも、1コマたりともおろそかにしない、小津の恐るべき職人的執念の賜物であるのだ。