1949年,日本,108分
監督:小津安二郎
脚本:野田高梧、小津安二郎
撮影:厚田雄春
音楽:伊藤宣二
出演:笠置衆、原節子、月丘夢路、杉村春子、桂木洋子

 北鎌倉に住む、大学教授の父と娘。甲斐甲斐しく父の世話を焼く娘ももう嫁に行かねばならない年頃。しかし娘はそんなそぶりも見せない。そんな娘に叔母が縁談を進め、父にも縁談を持っていくのだが… 結婚をめぐって微妙に変化する父と娘の関係を描いた。
 小津安二郎得意のホームドラマ、笠置衆と原節子というキャストと「東京物語」と並んでこのころの小津の代表的な作品。「東京物語」ほどの完成度はないが、そこに流れる叙情はやはり素晴らしい。

 基本的なスタンスは「東京物語」と同じで、笠置衆はやはり無表情で一本調子。しかし、原節子はかなり表情豊かで、一人体全体で物語を語っているという感がある。そのために、「東京物語」と比べると完成度が低いように見えてしまうのだろうか? 本当は異質なものと捉えればまた違う見方が出来るのだろうけれど、映画のつくりがかなり似通っているのでどうしても、ひとつの視点から比較してしまう。そうすると、「東京物語」のほうがやっぱりすごいということになってしまう。
 しかし、この作品もまた独自なものであると考える努力をしよう。そうするならば、この映画で印象的なのは、人のいない風景のインサートだろう。京都の石庭、嫁に行ってしまったがらんとしたうち、などなど。無表情な人間を取るよりも、完全に無表情な「モノ」を写すこと。そしてその完全に無表情な「モノ」から何かを読み取らせること。それはつまり観客が映画の中の「モノ」に自分の感情を投影させることに他ならない。そのような作業をさせうる映画であること。それが小津の目指したところだったのだろう。
 観客が能動的に映画の中に入っていける映画。それが小津の映画なのかもしれないとこの映画を見て思った。

 ということですが、この「モノ」というのは小津映画の特色であり、小津映画がどこか「変」である最大の要因なんじゃないかと思うわけです。小津映画といえば、「日本!」見たいなイメージ化がされていて、「変」というのと直接的には結びつかないような気がするけれど、よく見ると、あるいは何本も作品を見ていくと、「なんだか変」だということに気づく。もっと細かく分析していけば、その理由のひとつはカットのつながりにあるということもわかってくるのだけれど、もう一つ私が注目したいのは人のいない「モノ」だけのカットの頻出であるように思える。
 映画とは基本的に人物(あるいは擬人化された生き物やモノ)が主人公となって、物語が展開されているわけで、人物以外のものだけが映っている場合には、それは余韻であったり、必要な間として挿入されているものである。しかし、小津の映画では余韻あるいは間というにはあまりに不自然な挿入をされているのである。時には長すぎ、時には妙に短いカットの連続であったりする。
 あるいは、人が映っているのだけれど、物語とはまったく関係なさそうな行動であるようなシーンもある。このあたりはとても「変」で時にはつい笑ってしまったりするのだけれど、それが実は本当の小津映画の面白さであって、いわゆるイメージ化された「日本的なる物」の象徴としての小津なんて、表面的なものでしかないんじゃないかと思えてくる。

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