死ぬまでにしたい10のこと
2003/12/3
My Life without Me
2003年,カナダ=スペイン,106分
- 監督
- イザベル・コヘット
- 脚本
- イザベル・コヘット
- 撮影
- ジャン=クロード・ラリュー
- 音楽
- アルフォンソ・ビラジョナ
- 出演
- サラ・ポーリー
- スコット・スピードマン
- デボラ・ハリー
- マーク・ラファロ
- レオノール・ワトリング
- アマンダ・プラマー
- ジュリアン・リッチング
深夜の学校で清掃作業の仕事をするアンは、失業中の夫とふたりの幼い娘と母の家の裏庭のトレイラーハウスで暮らしていた。いつものように娘を送り出し、夫は仕事捜しに行ったあと、アンは急に倒れ、訪ねてきた母に病院に連れて行かれた。検査の結果は末期の癌で余命は2ヶ月から3ヶ月と告げられる。アンはそのことを誰にも告げないことに決め、その夜ひとけのないダイナーで、死ぬまでにしたい10のことをひそかにノートに書き留めた…
スペインの巨匠ペドロ・アルモドバルが製作総指揮、若手のスペイン人監督イザベル・コヘットが脚本・監督を務めた。主演は若手実力派サラ・ポーリー。脇役にも渋めのいい役者がそろっている。
何かが起こりそうで起こらない。もっともドラマティックな出来事は最初に起きてしまい、しかもそれは映画のテーマとして見る前に観客に提示されてすらいる。そのドラマティックな出来事以後の物語がこの映画の物語となるわけだが、その物語のドラマティックさは必然的に下降線をたどらざるを得ない。それはどんどん静かになっていく物語、死を迎える物語、主人公も死に向ってゆき、物語も死に向っていく。それはドラマの死、つまり大きな意味での「物語」の死をも意味しているのかもしれない。
「物語」とはすでに何かを物語るものではなく、語られるものの集合でしかなくなってしまったのかもしれない。この映画では、死ぬまでにしたい「10」のことが語られるべき10の物として提示される。この10の語られる物の集合がこの映画の物語であると言えるのだ。その10の物は決してひとつの物語に収束することはなく、それぞれに何かを語り、それぞれに結末を迎え、全体としては反物語化していく。
この映画の物語とはそのような物語である。あるいはそのように物語ではない。それでも一つ一つの語られる物を物語と言うことは可能だし、その一つ一つの語られる物はそれぞれ味わい深い。
隣に引っ越してきた女性が主人公と同じアンという名前であるという偶然も、主治医となった医師が気弱で患者の正面に座れないというのも、たまたまであった美容師がミリ・バニリのファンであるというのもとても面白い。
にもかかわらず、それらの小さな物語からひとつの大きな物語が浮かび上がって来ようとするのをこの映画は押さえ込み、拒否する。ひとりの主人公がいるにもかかわらず、その物語は分裂しているのだ。愛があり、秘密があり、かなえられなかった望みもある。
この映画に総指揮という肩書きで参加したペドロ・アルモドバルの前作『トーク・トゥー・ハー』も思えば小さな2つまたは3つ物語が絡み合う映画だった。この映画は植物人間状態に陥ったふたりの女性(そのひとりは隣に引っ越してきたアンを演じているレオノール・ワトリング)と、その2人を愛する2人の男の物語である。その2人の男性は友人となり、3つ目の物語を紡ぎだすのだが、それらはひとつの物語とはならない。1つの大きな物語がうまれようとするところでそれは押さえ込まれ、物語は分裂してしまうのだ。
そのようにして映画を反物語化すること。それはヨーロッパ映画によく見られる傾向と言えるのかもしれない。しかしアルモドバルの傾向は、物語であることを拒否するのではなく、1つの大きな物語であることを拒否し、複数の小さな物語であることを選択するという姿勢である。このような傾向は世界に偏在していて、一つの流れとなっているのかもしれない。
それにどのような意味があるのかということはいえないが、唯一つ言えることは複数の映画をひとつの遠大な物語に還元しようとするハリウッド映画とは真逆の方向に向っているということだ。