早春
2003/12/8
1956年,日本,144分
- 監督
- 小津安二郎
- 脚本
- 野田高梧
- 小津安二郎
- 撮影
- 厚田雄春
- 音楽
- 斎藤高順
- 出演
- 池部良
- 淡島千景
- 岸恵子
- 高橋貞二
- 笠智衆
- 山村聡
- 杉村春子
- 浦辺粂子
- 東野英治郎
- 宮口精二
- 加東大介
丸の内のサラリーマン杉山は毎日同じ時間に電車に乗る仲間と顔見知りになり、毎晩のように麻雀をし、妻の昌子はそれを不満に思いながらも許していた。杉山は妻も仲間に入れようと週末のハイキングに誘うが、結局ひとりで行き、その仲間の一人の“金魚”とあだ名される金子千代と仲良くなる。そして2人で食事したある日、ついに2人は関係を持ち、杉山は外泊して帰る。杉山は同僚の三浦の見舞いに行っていたとうそをつくが、昌子は拭いがたい疑惑を抱き始める…
小津の夫婦の関係をテーマとした作品の一つだが、不倫をテーマとしていて異彩を放つ。淡島千景と岸恵子の女の闘いが見もの。その間に挟まれる池部良も好演。他にもかなりの豪華キャストが出演し、ほんの脇役に至るまで見たことある顔ばかりという感じ。
岸恵子と池部良といえば『雪国』である。この映画の2人は『雪国』の2人を思い出させるようなねっとりとした関係にある。実はこの作品のほうが先に作られているので、設定を借りたとしたら『雪国』のほうなのだが。この作品では岸恵子は主役ではない。あくまで淡島千景と池部良の夫婦が主役なのである。そこが『雪国』とは根本的に違うわけだけれど、『雪国』の印象が強いために、それに引きずられてしまって、この映画でもそんな関係が生まれるのではないかという期待感が生まれてしまう。
しかしこの作品は小津の作品。池部良も岸恵子も小津作品にはこの一作にしか出ていない役者である。彼らは小津の世界の中でどこか違和感があり、どこか浮いているのだ。他の出演者たちは淡島千景をはじめとして、どっぷりと小津世界にはまっている。そのような印象があるから、この2人が結ばれるとき、それは当たり前だという印象がなんとなくある。しかし同時に小津映画であるのに思わせぶりな連れ込み宿のシーンなどがあるのに驚きもする。
このようにして小津は自らの映画に新しい人を登場させる。それによって新しい何かが生まれる。しかし中には違和感がある人もいる。そのような人は再び登場することはなかなかなく、一時のスパイスに終わってしまうのだ。池部良も岸恵子もそのようになってしまったけれど、それでも彼らは小津作品の中で異彩を放ついいスパイスになった。そのような意味では小津は役者を使うのが非常にうまい監督であるとも言えるだろう。
ところで、この作品は夫婦の関係をテーマとした作品であるということになる。そのような作品でよく聞かれるセリフは「夫婦とはいくつもの困難を乗り越えて初めて本当の夫婦になる」というような言葉である。それは真実かもしれない。少なくとも、昭和30年代には真実と捉えられていただろう。しかし面白いのは、この「困難」の原因が小津映画の場合は大概オトコの側にあるということだ。オトコが何か問題を起こして、妻はそれに怒り、オトコが反省し、結局妻はそれを許す。そのような展開が典型的にある。そこには何か小津の性向が現われているようで面白い。どこか女性を(母性を)理想化し、オトコを逆に情けないとして描く、そんな傾向が見られる。この作品の男たちも皆そうである。女性たちも皆そうである(岸恵子は少し違う)。
オトコの浮気は当たり前、女は三歩下がって…などと言われていた時代、そんな時代にオトコの情けなさを見透かして、映画にする。元来オトコは情けない生き物である。私にはそれは真実であるように思える。小津はそれを何十年も前に言っていた。よく言われるスタイルの面よりもそんな些細なことが小津の本当にすばらしいところであるように思える。世界で認められた小津の良さとは違う、日本人にとっての小津のよさ、それがそんな些細なところにある。
映画は世界語だといわれるけれど、小津は絶対に日本のもので、外国で見ている観客には小津の本当のよさはわからない。日本人はそんな風に思う。その一つは台詞回し/言葉遣いの妙であり、もう一つが考え方である。
でも、よく考えると、オトコの情けなさというのは世界共通か…