青春の夢いまいづこ
2004/1/10
1932年,日本,92分
- 監督
- 小津安二郎
- 原作
- 野田高梧
- 脚本
- 野田高梧
- 撮影
- 茂原英朗
- 出演
- 江川宇礼雄
- 田中絹代
- 斎藤達雄
- 大山健二
- 笠智衆
- 武田春郎
- 水島亮太郎
- 坂本武
- 飯田蝶子
気ままな学生生活を送る堀野と友人の熊田と島崎、それに対して真面目一辺倒で歩きながらも本を読んでいる斎木、4人とも勉強はからきしダメだが、仲はよく、テストのときもカンニングで協力していた。そんな彼らが仲良くしていたベーカリーの娘お繁は堀野に気があるようであった。しかし、堀野の父が急病に倒れ、堀野は父の偉業をついで社長になるため学校を辞めてしまう…
若き小津のほとばしる情熱が登場人物たちに乗り移ったかのように、小津にしては珍しく激しささえ感じさせる青春映画。小津はこんな男の友情物語もよく描く。
小津安二郎は主役にはいわゆるバタ臭い顔の役者を起用する。戦前では斎藤達雄、岡田時彦、江川宇礼雄という役者たち、戦後はなんと言っても原節子、男性でいえば、山村聡に佐分利信(このふたりはなんだか似ている)、大映に行って撮った『浮草』では中村雁治郎と京マチ子を起用した。彼らの顔は濃い。
これに対して、“常連”と言われる重要な脇役たちはそれと比べると淡白な顔立ちの人々である。笠智衆、杉村春子、浪花千栄子などなど。これは単純に好みの問題で、主役には画面の中で存在感を主張する役者を求め、脇役には霞草のようにどんな主役とも会う地味な役者を求めた、ということなのだろうか?
小津の画面に重要なのはバランスである。それは常にバランスが取れているということではなく、時にきっちりとしたバランスが取れていて、時にはそのバランスがあっさりと崩れるようなバランスの揺らぎである。画面のバランスというのは構図だけによるのではなく、映っているものにもよる。したがって、役者の存在感も画面のバランスを決める要素となり、出演する役者もバランスをとる必要が出てくる。ということだと思う。
ということもあるが、しかしやはり小津は顔の濃い役者がすきというのもあるのかもしれない。特にサイレントの時代は顔の造作が大きいほうが表情によってさまざまなことを語りやすいということもあるのかもしれない。小津の作品はサイレントとトーキーとを問わず、表情で語らせることが多い。しかも、それほどクロースアップにするわけでもなく、表情で語らせる。したがって、表情でいかに感情を伝えるかというのが重要になってくるのだ。だから、顔の造作が大きい役者を重宝したのだろう。
そういう方向から考えてみると、笠智衆などは顔の造作はそう大きくないが、普段が無表情であるだけに、急に表情を変えるとそこに強く感情が表れるという気がする。
話がマニアックな方向に行ってしまったので、軌道修正して、この作品の話に戻ると、この映画はテーマがなかなか判然としない不思議な映画だ。基本的には男の友情の物語であるのだと思う。しかし、不景気な世情が意識されており、就職難の話も含めて、「金」の問題が大きな問題となる。主人公の堀野の金の力がいろいろなことをおかしくしてしまう。堀野自身は金にはかまわず、金や社会的な地位の違いによる力関係を忌み嫌う。
それは一面では「金」が大きな力を持つ社会に対する批判という意味を持っていると思われる。しかし、それが物語の牽引力となってひとつのプロットが展開していくわけではない。むしろ問題になるのは堀野の立場である。堀野自身は金は関係ないと考えるが、それは堀野に金があるからこそ言えることなのだという論理が常に見え隠れする。物語の結末はいわゆる大団円となるけれど、それは必ずしもすっきりとした結論ではなく、どこかわだかまりが残るような結末なのだ。
それは物語自体の二重性/パラドックスである。シンプルな物語のように見えて、その裏には複雑な物語がある。それは心理の複雑な動きであり、それぞれの登場人物の立場の違いが生む物事の捉え方の違いである。そのような多様な人物像の存在が生む複雑な物語、それがすっきりしない感じもするがかみ締めるほどに味が出る、そんな映画を生んだのだと思う。