1959年,日本,119分
監督:小津安二郎
脚本:野田高梧、小津安二郎
撮影:宮川一夫
音楽:斎藤高順
出演:中村鴈治郎、京マチ子、若尾文子、川口浩、杉村春子、野添ひとみ、笠智衆
旅回りの劇団・嵐駒十郎一座が小さな港町にやってきた。座員たちはチンドン屋をやりながらビラを配ったり、マチの床屋のかわいい娘に眼をつけたりする。一方、座長の駒十郎はお得意先のだんなのところに行くといって、昔の女と息子を12年ぶりにたずねていく。しかし息子には「叔父だ」といってあり、本当のことを明かしてはいなかった。
小津安二郎が山本富士子の貸し出しの交換条件として契約した大映での唯一の監督作品。中村鴈治朗や京マチ子、若尾文子ら小津と見えることのなかった役者との組み合わせが興味深い。小津としては初めてのカラー作品で、小津らしからぬドラマチックな展開も注目。小津自身が1934年に撮った『浮草物語』のリメイクでもある。
小津安二郎の「変」さというのがこの映画には非常に色濃く出ている。小津のホームグラウンドである松竹大船撮影所で撮られた小津映画には完全に小津の「型」というものが存在し、そこから浮かび上がってくるのは「小津らしさ」というキーワードだけで、小津映画が「変」だという感慨は覚えない。しかし、よく考えると小津映画というのはすごく「変」で、ほかの映画と比べるとまったく違うものである。それを「小津らしさ」としてくくってしまっているわけだが、その「らしさ」とはいったい何なのか、それは映画としておかしいさまざまなことなんじゃないか、という思いがこの映画を見ていると浮かんでくる。
それはこの映画が「大映」というフォーマットで撮られたからだ。(笠智衆や杉村春子は出ているが)いつもとは違う役者、いつもとは違うカメラマン(宮川一夫は厚田雄春に負けるとも劣らないカメラマンだが)、全体から感じられる異なった雰囲気、それはこの映画をほかの大映の映画と比較できるということを意味している。たとえば溝口や増村の映画と。そうしたとき、小津映画の「変」さがありありと見えてくる。最初のカットからして、灯台と一升瓶を並べるというとても変なショットだし、短いから舞台のカットを何枚か続けて状況説明をする小津のいつもの始まり方もなんだかおかしい。
そして極めつけは人物を正面から捕らえるショットの多用。これが映画文法から外れていることはわかるのだが、普通に小津の映画を見ているとそれほどおかしさは感じない。しかしこの映画では明らかにおかしい。さしもの名優中村鴈治朗もこの正面からフィックスで捉えるショットには苦労したのかもしれない。さすがに見事な演技をして入るが、そこから自然さが奪われていることは否めない。そもそも小津の映画に自然さなどというものはないが、小津映画に常連の役者たちは小津的な世界の住人として小津的な自然さを演じることに長けている。
杉村春子とほかの役者を比べるとそれがよくわかる。杉村春子のたたずまいの自然さは役者としてのうまさというよりは、小津映画での振舞い方がわかっているが故の所作なのだろう。
しかし、この小津の「変」さを浮き彫りにする大映とのコラボレーションは、ひとつの新しい小津映画を生み出してもいる。大映の映画というのがそもそもほかの映画会社の映画とはちょっと違う「変」な映画であるだけに、そこから生み出されるものは強烈な個性になった。
うそみたいに激しく降る雨の通りを挟んで、軒下で言い争いをする中村鴈治朗と京マチ子、その不自然さは笑いすら誘いそうだが、その笑いは強烈な印象と表裏一体で、そのイメージがラストにいたって効いてくる。「静」と「動」、常に「静」で終始しているように見えることが多い小津映画には、実は常にその対比が存在し、それが映画のリズムを作っているということ、そのことも改めて認識させられる。この映画がほかの小津映画に比べてドラマティックに見るのは、その「静」と「動」の触れ幅が大きいからなのかもしれない。
小津が普段と違うことをやろうとしてそうなったのか、それとも普段の小津世界とは違う人たちが関係しあうことによって自然に生まれてきたものなのか、それはわからないが、こんな小津もありだと思うし、こんな大映もありだと思う。
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