テハンノで売春していてバラバラ殺人にあった女子高生、まだテハンノにいる
2004/1/14
Daehakno-yeseo Maechoon-hadaka Tomaksalhae Danghan Yeogosaeng Ajik
Daehakno-ye Issda
2003年,韓国,60分
- 監督
- ナム・ギウン
- 脚本
- ナム・ギウン
- 撮影
- ナム・ギウン
- 音楽
- ナム・ギウン
- 出演
- イ・ソユン
- キム・デトン
- ぺ・スベク
- キム・ホギョム
男性の性欲が見えるというサングラスをかけ、テハンノで売春をする女子高生が「強姦プレイ」の3万コースの最中に担任の先生に見つかってしまう。女子高生は5万コースで見逃してもらう合意を取り付け、行為に及ぶが、彼女は先生の子を宿したといい、先生を愛していると言い出す…
韓国インディーズで話題となったカルト映画。とりあえず、カルト映画らしい風貌を備え、羽目をはずした笑いを狙っているのはわかるが、笑いのつぼに入らなければまったく面白くない。
この映画には、現実と交わる部分がまったくない。仮に映画を逃避、非現実世界への飛躍であると考えたとしても、現実とまったく接点がない映画は現実において映画を見ているわれわれにとって何の意味ももたない。完全に非現実であり、まったく無意味であることが、現実のある種の皮肉にでもなっていれば、それはそれで何らかの面白みをもつこともある。しかし、そんなかすかな皮肉が入る余地すらもないのがこの映画であると思う。
すべての風景と、論理が完全に非現実的であるにもかかわらず、あたかも現実の一部として存在しているかのように振舞われる。そして、それが現実の一部分であるようなどこかの場所で撮られたのだという映画の作為性までもがその画面の裏に透けて見えてしまう。安っぽい特殊メイクも、いかにもカルト映画の登場人物然とした登場人物たちも、それが作り物であることを意識させる意外には何の効果も生んでいない。
そして、動作のすべてに意味がない。女子高生が「先生」に銃を向けるとき、その銃はぴたりと狙い済ますのでもなく、プルプルと震えるのでもない。ただ緩やかに上下に揺れる。このまったく意味のない動作、映画とは映っているもののすべてに意味がある(少なくとも作る側の意図がある)ものでなくてはならないはずだ。この映画はそんな根本的な部分から映画を軽視しているとしか思えない。
作り物じみたすべてのものに、実はすべて意図があり、ただその表現方法がおかしいだけならば、そこには笑いが生まれる。たとえば『シベリア超特急』は製作者(もちろんマイク水野)の意図から外れて(いるんだと多分思う)面白みを生んでいる。それがカルト映画というものである。あるいは、あえて作り物じみたものを作ることによって笑いを生み出そうとするものもある。たとえば『裸足のピクニック』は低予算を逆手にとってか、チャチイ仕掛けを使うことによって笑いを誘う。
しかし、この映画は作り物じみたチャチイ仕掛けをそれと知りながら真面目に演じようとする。それは単なる作り物の現実でしかない。そこにはリアリティもおかしさも何もない。
作り物の現実の中で、作り物の人たちが、作り物の物語を、ただたどたどしく演じているだけ。援助交際(と韓国で言うのかどうかはわからないが)とオカルトとというテーマ設定が同時代的であり、映画全体の無意味さもまた“新しさ”の錯覚を生むことである話題性を獲得することは出来ただろう。そして、ミュージカルであるかのように多用される音楽(あくまでBGMだからミュージカルではありえないのだけれど)が何かを見たという気にさせる。
これは、どう見ても、むやみに金をかけただけの出来の悪い自主制作映画であり、「映画」を作ろうという意思すら感じられない映画ですらない何かなのだと思います。一つ救いがあるとすれば、ながながとオペラ歌手が歌い上げるシーンはパロディ的なものとして一つの面白みがあったと思う。