1993年,日本,92分
監督:矢口史靖
脚本:鈴木卓爾、中川泰伸、矢口史靖
撮影:古澤敏文、鈴木一博
音楽:うの花
出演:芹沢砂織、浅野あかね、あがた森魚、泉谷しげる

 ごく普通の女子高生がキセル乗車を見咎められたことをきっかけに、どうにもならない不幸のどん底へと陥って行く。ただただそれだけの映画。
 しかし、どんどん繰り出されるブラックな笑いの渦に巻き込まれると、どんどん映画に引き込まれて行く。矢口史靖監督の長編デビュー作。

 「アドレナリンドライブ」を見ると、むしろ「裸足のピクニック」のすごさが際立ってくる。これだけお金をかけずに、これだけめちゃめちゃな映画なのに面白い。役者もほぼ無名な人たちばかり。身代わりの人形はあまりにしょぼい。なのに面白い。あるいはそこが面白い。
 この映画を見ると、「映画の面白さっていったい何なんだ」と考える。よくできていて、その世界にすんなりと入り込める映画も面白ければ、この映画みたいに明らかに作り物で、ただそこに変なことをやっている人たちがいる面白さもある。このような映画(いわゆるインディーズ映画)を「いわゆる映画的なものを壊している」という表現でくくってしまっていいのか?と考える。
 分析して行くとますます違うもののように思えてくる、いわゆる「映画」といわゆる「インディーズ映画」が実際は同じ「映画」でしかないことを考えると、こんな区別が果たして意味があるのかという疑問がわいてくる。
 「インディーズ映画」というのは結局のところ「インディーズ=低予算」であるということだ。気をつけなければいけないのは「インディーズ=実験的」では(必ずしも)ないということ。実験的なのではなくて、お金がないがゆえに工夫に富んでいるだけかもしれない。
 そう考えると、徐々に「インディーズ映画」もまた映画であることが納得できて行く。「映画」になるために工夫を凝らされた「映画ではないもの」が本当に「映画」になった瞬間がインディーズ映画であるといえるんじゃないか。(だとすると、PFFのスカラシップっていうのは、まさしくインディーズ映画の工場みたいなもの「映画」を作りたくてうずうずしている若い監督に1000万(多分)という、「映画」を作るには少なすぎるお金を渡して「映画」を作らせる試み。そこから生まれてくるものは常に「インディーズ映画」と呼ぶにふさわしいものなのかもしれない)
 ならば、「裸足のピクニック」という素晴らしいインディーズ映画をとった矢口監督が「映画」を作ろうとして本当に「映画」を作ってしまった「アドレナリンドライブ」がいまいち納得できなかったのもうなずける気がする。

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