座頭市千両首
2004/3/2
1964年,日本,94分
- 監督
- 池広一夫
- 原作
- 子母沢寛
- 脚本
- 浅井昭三郎
- 太田昭和
- 撮影
- 宮川一夫
- 音楽
- 斎藤一郎
- 出演
- 勝新太郎
- 坪内ミキ子
- 長谷川待子
- 城健三朗(若山富三郎)
- 島田正吾
- 石黒達也
市はやくざ同士の出入りの最中に殺してしまった男の墓参りに板割というところに出かける。そこでは祭りの真っ最中、聞けば代官への上納金1千両が集まったお祝いだという。翌日、百姓たちが1千両を運ぶ途中、3人組の浪人に襲われ、さらにその仲間に襲われて1千両は馬から落ち、山を転がり落ちてしまうのだが、そこには市がいて…
座頭市シリーズの第6作、名カメラマン宮川一夫が座頭市シリーズでは初めてカメラを持った作品。展開はいつもどおりという感じだが、映像はさすがに鋭い。役柄は変わったが、勝新の実兄若山富三郎(城健三朗)が再び登場『続・座頭市物語』以来の対決も見もの。
ここで座頭市を取り上げるものはや9本目ということで、いい加減書くこともなくなってきた感じがします。宮川一夫もシリーズ上では初めてですが、以前に『座頭市の歌が聞える』で取り上げてしまいました。若山富三郎もしかり。
それでも、若山富三郎のキャラクターはなかなか特異なもので、そのあたりは面白くできている。座頭市の敵役というのはたいがい金に目がくらんだ素浪人で、時々、座頭市のライバルといえるしっかりとした仁義を持った男が登場するわけだが、この敵役はどちらにも当てはまらない。なぜか皮の鞭を持ち、確かに金を取ろうとはしているけれど、市を倒そうとする目的は金ではない。ただただ「メクラ」が嫌いなだけ、というものすごい理由なのである。
ここがかなりこの映画の独特なところで、さらにはこの映画では座頭市を「どメクラ」と言って罵倒するシーンが何度となく出てくる。座頭市は「どメクラ」と言われると、非常な憤りを感じるわけだが、それが確立されたのはこの作品なのではないかと思う。座頭市は自分がやくざもんであることは恥じて、「陽の当たるところは歩けない」とか言うわけだが、「メクラ」であることで差別されることには怒りを露にする。
これは別に映画として目の見えない人たちに対する差別に反対するという戦略的な理由があるというわけではないと思うが、この要素は座頭市が単なる娯楽時代劇ではなく、何か現代的なものをたたえているという理由のひとつになっているのだと思う。
これも含めて、勝新の座頭市シリーズは非常に現代的なのだ。言葉の使い方なんかもよく考えてみると、ちっとも時代劇じみていない。もちろん時代考証はなされているので、実際に現代的なものが紛れ込むことはないわけだが、あまり代がかっていないしゃべり方がされているとか、出てくるものにどこか現代的な印象を受けたりとか、そのようなことがある。
それは逆に、いわゆる時代劇というものが形式的なイメージ化された「昔」に固執しすぎているということなのかもしれないが、観る側の印象としては、座頭市が現代的ということになる。それがこのシリーズが今も面白く見られる理由のひとつなのではあるだろう。
*文章中に差別的とされる用語を使用しておりますが、映画のニュアンスをうまく伝えるためであり、差別をする、あるいは差別を助長する意図はございません。ご不快な思いをされた方にはお詫びいたします。