スパニッシュ・アパートメント
2004/5/9
L'Auberge Espagnole
2002年,フランス=スペイン,122分
- 監督
- セドリック・クラピッシュ
- 脚本
- セドリック・クラピッシュ
- 撮影
- ドミニク・コラン
- 音楽
- ロイク・デュリー
- 出演
- ロマン・デュリス
- ジュディット・ゴドレーシュ
- オドレイ・トトゥ
- セシル・ドゥ・フランス
- ケリー・ライリー
- クリスティーナ・ブロンド
パリに住む経済学専攻の大学院生グザヴィエは父の友人に会い、将来の仕事のためにスペイン語とスペイン経済について学ぶよう勧められる。その勧めにしたがって恋人マルティーヌとの別れを惜しみつつバルセロナに留学することにした。しかし、着いた先ではアパート探しに難儀し、国籍のばらばらな男女5人が暮らすアパートにようやく落ち着いたのだが…
『猫が行方不明』のクラピッシュが舞台をスペインに移して撮った群像劇。主演は常連のロマン・デュリス、『アメリ』でブレイクするオドレイ・トトゥがその恋人役で出演している。
クラピッシュは“カオス”を好む。この映画はなんてことはない映画なのだけれど、そこに“カオス”があり、そのために面白い。それが面白いというのは、そこには様々なことが含まれていて、その一つ一つがなんとなくの説得力を持って迫ってくるからだ。主人公グザヴィエが外国に行き、そこで新しい仲間に出会い、そこで感じる新しい喜びと、故国に残してきた恋人との気持ちのずれの二重性、それは見ているわれわれが感じたことがある何かの感情と似ている。描かれている様々なことが、観ているわれわれの心の中にある様々なこととどこかで呼応する。だから、映画自体が劇的でなくても、自分自身の感情がふっと呼び起こされて、思わず笑ってしまったり、いらだったり、ほっとしたりと様々なリアクションをしてしまう。この映画にはそんな感覚がある。
それは、何かがピタッと心のどこかにはまったような感覚で、非常に気持ちいのだが、そのようなことが起きるのは、人間の心の中もまたカオスであるからだと思う。意識/無意識という分類を考えるまでもなく、人間の心には記憶と感情と欲望と妄想と、あらゆるものが整理されずにある。その整理されずにある状態がカオスであり、それがこの「スパニッシュ・アパートメント」なる共同生活に似ている。
この映画の中では整理する、きちんとするということがひとつのテーマというか、人間性を区別する目安になっている。いつもきちんとしているのはイギリス人のウェンディと、ドイツ人のトビアス、イタリア人のアレッサンドロはまったく整理などというものをしない。ウェンディはいつもみんなが整理整頓や掃除をしないことに文句を言っている。
しかし、結局のところウェンディだってトビアスだって、その心にはカオスを抱えているということもわかってくる。
さらには、グザヴィエが飛行機で一緒になって最初に世話になるフランス人のジャン=ミッシェルは精神科医。このあたりを考えると、この映画は、「スパニッシュ・アパートメント」というカオスから、人間の心というカオスをのぞこうという映画なのではないかと思えてくる。
そう結論付けてみたところで、そこで何かが明らかになるわけではない。それはこの映画をただ整理してみただけのこと。整理してわかりやすくなったとしても、そこからわかることなんてたいしたものではない。本当に重要なのは整理しきれなかったカオスの部分である。それはこの映画のアパートメントで整理されている部分(きちんとしているウェンディ)が面白くないのと同じであり、人間の心の整理された外向きの部分が面白くないのと同じであり、整理された心の表層には本当の感情は浮かんで来やしないということと同じである。 この映画はカオスであるがゆえに面白く、心のカオスを開くから面白い。整理して理解しようとせずに、心を開いて自分のカオスに呼びかけてみれば、思いがけない感情のうねりに浸れるかもしれない。