昼顔
2004/5/10
Belle de Jour
1967年,フランス,100分
- 監督
- ルイス・ブニュエル
- 原作
- ジョセフ・ケッセル
- 脚本
- ジャン=クロード・カリエール
- ルイス・ブニュエル
- 撮影
- サッシャ・ヴィエルニ
- 出演
- カトリーヌ・ドヌーヴ
- ジャン・ソレル
- ジュヌヴィエーヴ・パージュ
- ミシェル・ピコリ
- フランソワーズ・ファビアン
若妻のセブリーヌは医者である夫と肌を合わせることを怖れていた。しかし、心の底では欲望を燃え滾らせ、夢の中では見知らぬ男に鞭打たれるという経験をしていた。そんなある日、上流階級の友人の一人が売春宿で体を売っているということを聞き、体に疼きを覚える。そして、人づてに聞いた売春宿のある場所にこっそりと足を向ける…
ブニュエルがカトリーヌ・ドヌーヴを昼間は娼婦となる上流階級の夫人に変貌させる。その変態さはこれまでの作品と比べても引けをとらず、その世界観、心理学的描写など、ブニュエル映画のおいしいところ取りという感じの作品。
最初のシーン、馬車が道を行くのだけれどその奥には自動車が走っている。このシーンが夢であることがすぐあとに明らかにされるのだけれど、それにしてもこのシーンはすごく変なシーンである。夢ならば、馬車というものが象徴する時代設定に自動車などという妙に現実的なものが入ってくるとは思えない。しかし、この自動車が偶然映ったなどということはありえない。自動車は奥の方に小さく映っているだけではあるが、カメラは明らかにその自動車がしっかりと映っていることを確認してから馬車を追ってカメラを動かしていくのだ。
これが夢ではなく、現実だとしたらこれはありえることだ。自動車が走っている時代でも馬車が走っていることはある。主人公のセブリーヌは自動車の時代にいきながら、馬車にあこがれているのだ。
つまり、この冒頭のシーンは不思議ではあるが非常に現実的なシーンであるといえるのだ。しかし、これはあくまでも夢であり、この段階ですでにブニュエルの夢/妄想と現実とを混乱させる語りが始まっていると考えるしかない。
この映画は何を取っても、その夢/妄想と現実との混乱の映画である。セブリーヌはマゾヒスティックな欲望を夢/妄想としてみつつ、現実には夫から触れられることすら恐れるのだ。
この映画ではその原因を少女期の体験(トラウマ)においている。このあたりは今から観ると非常に短絡的というか、ステレオタイプという気もするが、ジャック・ラカンの精神分析学が脚光を浴びていた60年代のフランスでは非常に時宜を得たものだったのかもしれない。ただ、ブニュエルはこの理由付けを映画の大きなテーマとはせず、セブリーヌの夢/フラッシュバックという形で数ヶ所で言及するにとどめた。これは、ブニュエルが精神分析的に女性心理を描きたかったのではなく、その心理の表われのほうを描きたかったということを意味するのだと思うが、それならばこの部分はばっさりと捨ててしまった方がよかったのではないかとも思う。
とにかく、それも含めてブニュエルはこの映画を決して精神分析映画にしようとはしていないと思う。ジャック・ラカンはブニュエルの『エル』を授業の教材にしたらしいが、ブニュエルの方はそんなラカンをおちょくるかのように、そのことに無関心なのである。精神分析的な理由付けなどにはまったく頓着せず、マゾヒズムというある種の病理/変態性欲(ブニュエルは病気だとも変態だとも思っていないだろうが)をただただ描く。そして、マゾヒズム以外の変態(とされる)性欲も登場するわけだが、それらもまた夢/妄想か現実かが判然としないまま表われては消えていく。
ブニュエルは夢/妄想と現実の混乱を利用して、夢/妄想に分類されるはずの現実からはみ出して以上とされるようなことをどんどん現実に取り込んでいってしまう。あるいは現実を夢のほうに取り込んでいくというべきか。とにかく、夢と現実という区別を無意味なものとして、それを一緒くたにした何か(それはおそらく人間の認識というものの全体)をとにかく描こうとする。
そして、その中でヌーヴェル・ヴァーグを槍玉にあげる。ゴダールのような黒眼鏡の男が登場し、シャンゼリゼでは「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン!」と新聞の売り子が叫び、男がパリの名も知れぬ通りで警官に撃たれて倒れる。このゴダールのパロディによってブニュエルは何を言おうとしたのか?彼らが非常に現実的であることを憂えたのか、それとも彼らの中に新たな混沌の可能性を見出したのか?
この作品を見る限りブニュエルはヌーヴェル・ヴァーグ(ゴダール)の中に、現実と夢とをつなぎうる可能性を見たのだと私は思うが、そこはブニュエル。ただ笑いのネタとして織り込んだに過ぎないのかもしれない。ともかくも、ブニュエルのシニカルなセンスは60年代になっても健在なのである。