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大人は判ってくれない

2004/6/9
Les Quatre Cents Coups
1959年,フランス,97分

監督
フランソワ・トリュフォー
脚本
フランソワ・トリュフォー
マルセル・ムーシー
撮影
アンリ・ドカエ
音楽
ジャン・コンスタンタン
出演
ジャン=ピエール・レオ
クレール・モーリエ
アルベール・レミー
ジャン=クロード・ブリアリ
ギイ・ドゥコンブル
preview
 学校で先生に目をつけられているアントワーヌは今日も立たされ、さらに落書きを見つけられ居残りをさせられた。家に帰れば、共稼ぎの両親は喧嘩ばかりして、母親はアントワーヌに用事ばかり言いつける。翌日、宿題をやっていなかった彼は、親友のルネに誘われるがままに学校をサボって映画を見に行く。翌日、欠席の言い訳に困った彼は先生に「母親が死んだ」と言ってしまう…
 トリュフォーの長編第1作。『勝手にしやがれ』と並んで、いわゆるヌーヴェル・ヴァーグの時代の到来を告げる記念碑的作品のひとつである。奇をてらったことはせず、思春期の少年の微妙な気持ちの揺れを見事に描ききった秀作。
review
  「われ発見せり」
 バルザックのこの言葉を見出したアントワーヌは何を発見したのか。トリュフォーはアントワーヌという思春期なるものを体現している人物に何を押し付けているのか。この作品を撮ったときのトリュフォーはもちろん思春期ではないが、思春期というものを、何か別のものになろうとしている時期と考えれば、ヌーヴェル・ヴァーグなるものはこのころちょうど思春期にあったと言ってもいいのかもしれないと思う。
 社会が押し付ける規範は、少年の眼から見れば大人が自分の都合で勝手に押し付けてくるものでしかない。その大人が自分を説得してくれればいいのだけれど、どう見てもわがままを人に押し付けているようにしか見えない。 思春期に至る前には、大人の言葉には説得力があり、言うとおりにすることがいやではあっても、裏切られた気分にはならなかった。しかし、思春期になって、大人の行動に反論する論理が自分の中に見つかり、大人の言うことに納得できなくなる。
 そのとき、思春期の少年が(もちろん少女も)見つけるのは、自我であると思う。それはつまり自分が他人と異なっているということ。自分と親とは違う人間であるということだ。こう書いてしまうと当たり前のことのように思えるが、それは実は非常に大きな発見なのである。
 それを裏付けるかのように、映画の終盤でアントワーヌとルネが幼い子供を人形劇に連れて行くという場面が挿入される。物語とまったく関係ないこのシーンに、かなり長い時間が割かれるのは、そこに映る人形劇を見る子供たちがまだ子供であること、自我に目覚めていないことを示すためである。 そのシーンに映る子供たちは、一心不乱に人形劇を眺め、人形の一挙手一投足にあわせて表情を変え、体を動かす。
 それは、まさに人形劇の登場人物と自分との区別がはっきりとはついていないということであり、また、一緒に見ているほかの子供たちと自分との境界があいまいであるということであるのだと思う。「そんなバカな」と思うかもしれないが、この映画を見ているとそう思わざるを得ない。

 子供のころ抱えてきた想いを取り出してみることは難しいし、自我が確立してしまった今となっては、自と他の渾然としている心のありようを想像してみることはほとんど不可能である。しかし、子供はわけもなく人の行動を真似ていたりする。たいした説得力があるとは思わないが、記憶が生まれるのが3歳くらいであるというのも、自我と関係があるらしい。記憶というのは、自己とつながっていなければつなぎとめておくことができない。自我が目覚めるのが3歳くらいなので、記憶とはそのころはじめて生まれるというのである。なんとも漠とした議論だが、その自我が徐々に育っていき、思春期で「われ発見せり」となるというのである。
 まったく説明になっていないが、とにかくこの『大人は判ってくれない』は少年が自我に目覚めた瞬間を描いた映画であるといいたいのである。

 そして、それを本を読みながら発見したというのもかなり示唆的である。自我の形成には「言葉」が決定的に重要な役割を果たすのだと思う。自我が確立されるのは、おそらく自分と他人とでは世界の捉え方が違うということに気づく瞬間であるのだと思う。そしてそれは、世界というものを言葉で説明しようとしたときに、決定的な違いとして表れてくるのだと思う。アントワーヌがバルザックを読みながら発見したのは自分が世界を説明するのにぴったりの言葉であったはずだ。それによって、それまでやり場のない怒りの対象としか感じられていなかった世界がぴたりと体にあった気がするそんな瞬間であったのだと思う(その感覚は、すぐに覆されてしまうのだが、それによって自我が確立されていない状態に逆戻りすることはありえない)。
 そして、その「言葉」というものはヌーヴェル・ヴァーグが重視したものでもあった。映画を批評することから始まったヌーヴェル・ヴァーグは言葉によって映画を捉えようとしていたのではないかと思う。ゴダールの映画に文字が多用されるという例を挙げるまでもなく、いわゆるヌーヴェル・ヴァーグの作家たちは言葉に固執する。それはヌーヴェル・ヴァーグという映画の鬼子が映画とは離れたものとしての自我を確立するための方策であったのではないかと思う。それまでの映画は言葉にあまりに無頓着すぎた。それは映画がそもそもは言葉を持っていなかったということと関係あるのかもしれないが、ともかくもヌーヴェル・ヴァーグは言葉によって思春期を脱し、映画から抜け出そうとしていたのかもしれない。
 ヌーヴェル・ヴァーグの出発点といわれる2つの映画『大人は判ってくれない』と『勝手にしやがれ』がともに、社会からはみ出していく若者を描いているのは決して偶然ではなく、映画というひとつの規範から抜け出そうとするヌーヴェル・ヴァーグの必然だったのだと思った。

 なんとも中途半端な「自我」論、そしてヌーヴェル・ヴァーグ論となってしまったが、この映画がヌーヴェル・ヴァーグの出発点であったように、この論もヌーヴェル・ヴァーグ論の出発点でしかないのだ。映画を見ることによってヌーヴェル・ヴァーグなるものの真髄に近づいていくしかないのだと私は思う。
 この中途半端な読み物はヌーヴェル・ヴァーグが映画の核心に近づいていったように、私がヌーヴェル・ヴァーグに近づいていく、その階梯のほんの始まりだと思って、温かく見守ってくださいませ。

Database参照
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監督順: 
国別・年順: アメリカ2001年以降

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