夜霧の恋人たち
2004/6/25
Baisers Voles
1968年,フランス,101分
- 監督
- フランソワ・トリュフォー
- 脚本
- フランソワ・トリュフォー
- クロード・ド・ジヴレー
- ベルナール・ルボン
- 撮影
- ドーニス・クレルバツ
- 音楽
- アントワーヌ・デュアメル
- 出演
- ジャン=ピエール・レオ
- クロード・ジャド
- デルフィーヌ・セイリグ
- マリー=フランス・ピジェ
- ミシェル・ロンズデール
軍隊に志願したアントワーヌは素行不良で退役になってしまう。その足で売春宿に行った後、かつての恋人クリスティーヌの家に行く。そこで彼女の父親にホテルの夜勤の仕事を紹介してもらうが、私立探偵の計略に乗って女性客の浮気現場にその夫を入れてしまいクビになる。しかし今度はその私立探偵が働く事務所で働くことに…
『大人は判ってくれない』に始まる「アントワーヌ・ドワネル」シリーズの第3作(長編としては第2作)。すっかり大人になったアントワーヌについつい肩入れしてしまう。
アントワーヌは読書好きで女好き、そして仕事を次々変わる。話としてはただそれだけなのかもしれない。しかしこれは恋の話、ただそれだけで十分にドラマティックであるのだ。
クリスティーヌとアントワーヌの関係は非常に微妙だ。アントワーヌはクリスティーヌ自身よりその両親とのほうが仲がいいようにも見える。しかしやはり2人は惹かれあっていて、やはりすれ違うという話だ。そのナイーブな感じが非常にトリュフォーらしい。
それにしても、アントワーヌはものすごく淡々としたキャラクターである。少年のときから無表情ではあったが、青年になっても感情をなかなか表に現さない。表情やしぐさではなく突発的にも見える行動によって感情を表しているのかもしれないが、それがなかなか判りにくい。さらにトリュフォーは肝心の言葉を「書かせる」ことで観客からそれを隠す。ファビエンヌへの手紙、クリスティーヌとの筆談、それらによってアントワーヌの感情や言葉は隠される。そういえばアントワーヌはセリフもすごく少ない気がする。
そのようにして作り上げられたアントワーヌというキャラクターは非常に魅力的だ。この作品の後も『家庭』『逃げ去る恋』と作品が続くわけで、早くそれを見てみたいという気にさせる。この映画はこの映画で一本の作品なのだから、それで論ずるべきなのかもしれないが、なんかどうもね。
それよりも、この作品を見ながら考えたのは、シリーズということだった。シリーズものの映画というのは人気が出やすい。最近のシリーズといえばなんと言っても『ハリー・ポッター』である。『ロード・オブ・ザ・リング』は3部作であってシリーズではない。というここの違いが非常に重要であると思うのだ。
映画というのはそもそも1時間半なり、2時間なり、長くても4・5時間という時間で区切られた時間である。描かれる対象も、1時間程度の出来事の場合もあれば、何百年にわたる出来事の場合もあるが、どちらにしても区切られた時間である。それに対してシリーズものというのは連続する時間であるような気がする。とくにこのアントワーヌ・シリーズやハリー・ポッター・シリーズのように、主人公が成長していく場合には、その連続性が非常にリアルなものとして捉えられる。実際に映画として描かれるのは区切られた時間ではあるが、その作品と作品のあいだの時間も描かれていないにしても存在する時間として捉えられるのである。その時、その存在はリアルなものとして観客に迫ってくる。それがシリーズというものが観客をひきつける理由であるような気がする。
というように考えると、少しはなしは飛躍するが、ヌーヴェル・ヴァーグが唱えてきた「作家主義」というのもある意味での映画のシリーズ化なのではないかと考えてしまう。映画そのものとは別に「作家」という主人公を設定して、その「作家」のシリーズとして映画群を提示する。そこで映画の背後に見え隠れする作家の成長の姿を観客は見、そこにリアルを感じるのだ。しかも、その作家というものは実在する人間なのだから、そのリアルさも格別のものである。「誰々って監督の作品が好き」という時、その人はその監督のシリーズを見ている。映画の主人公に同一化するように監督に同一化して、その成長する姿を楽しんでいるのだ。
そう考えるとヌーヴェル・ヴァーグの中心人物のひとりであるトリュフォーがこのアントワーヌのシリーズを撮ったということは非常に興味深いことだ。このシリーズというのは、観客にとっては二重にシリーズ化された映画群であるということになり、自然と興味も増す。トリュフォーがそのようなことを意識的にやっているとは思わないが、そのような効果によってこのシリーズは絶対的に面白いものになっているのだと思う。