焼け石に水
2004/7/28
Goutter d'Eau sur Pierres Brulantes
2000年,フランス,90分
- 監督
- フランソワ・オゾン
- 原作
- ライナー・ヴェルナー・ファンスビンダー
- 脚本
- フランソワ・オゾン
- 撮影
- ジャンヌ・ラポワリー
- 出演
- ベルナール・ジロー
- マリック・ジディ
- リュディヴィーヌ・サニエ
- アンナ・トムソン
1970年代のドイツ、なぜだか中年男のレオポルドについてきてしまった20歳の青年フランツ、話しているうちにフランツはレオポルドにいろいろな秘密を話し、最後にはベッドを共にする。ここまでが第1幕で、ふたりが同棲生活をしているというところから第2幕が始まる。
『8人の女たち』のヒットで一躍メジャーな監督となったフランソワ・オゾンの長編第3作。登場人物は四人だけという密室劇でオゾンらしいおかしな世界観が炸裂。
この監督の作品をいくつか見ると、共通の特徴というのがたやすく浮かび上がってくる。少ない登場人物、密室、愛と死。
少ない登場人物は物語をシンプルにする。群像劇は群像劇で面白いのだが、人の心理をえぐっていくには登場人物が少ないに限る。この映画などは物語などほとんどないに等しく、あるのは登場人物の心の葛藤だけなのだ。主人公のフランツは言葉すくなにレオポルドに従っているわけだが、その心には常に葛藤がある。それが表面に表れるのがドイツ語の詩である。詩という形式によって婉曲的に表現される心理の機微がこの監督の生命線だ。
密室とはある意味では映画の可能性を限定するものである。登場人物の少なさとあわせて使うことが出来る道具を絞ってしまうことになるからだ。この映画は雨という道具を使うために建物の外景が一度だけ出てくるが、映画の始まりからしてフランツとレオポルドが入ってくるドアを内側から映したショットであるし、その後も一貫して建物の内側からの視線に限定されている。映画の始まりのタイトルクレジットの背景となっている風景はなんと絵だ。
この映画の構造も主人公フランツの心理を表現するのに役立っているのではないかと思う。仕事を見つけたなどという話をすることはあるが、そのシーンが出てくることはなく、フランツの心は完全にあの部屋の中に閉じ込められているのだ。それはつまり、フランツが最初に出て行くといった場面ではフランツは本当には出て行く気がなかったということだ(外が映らないから)。それに対して唯一外景が映る後半のシーンではフランツは本当に出て行こうという気になっていたということになる。
そのようにして心理を描いていくオゾンの手法はまったく見事としか言いようがない。唐突と思われる踊りのシーンもその関連で考えていくと意味を持ってくる。ぱっと映画を観ると、流れの中での遊びというか、ちょっとしたおふざけのようにも見えるが、しかし踊る4人の様子を見れば、そこにそれぞれの心理が表れていることがわかる。自信を持ってしっかりと踊るレオポルド、忘我の局地にいるように踊るアナとヴェラ、必死にレオポルドの振りをまねながら自信なさげに踊るフランツ、ここでこの4人の関係性は確固たるものになってしまう。
オゾンの作品は確かに可笑しい。しかしその可笑しさの裏には彼が表現しようという何者かがあるのだと思う。それが「愛と死」である。愛とはそもそも奇矯なものである。形の定まらないもの、手に取ろうとするとヌルリと滑り落ちてしまうもの。それをオゾンはこの作品で明確な形として示した。様々な愛の形、愛のために変わっていく人間の形。それぞれの不定形の愛の形がどこかで交わって、いつかはヌルリと滑り落ちてしまう。
!!ネタばれです!!
レオポルドはそのことを体で知っていて、決して愛に身を捧げることはない。愛は眼に見えない不定形のものだから、それを騙ることもたやすいのだ。
レオポルドはフランツのような男が4、5人はいるに違いない。だから、1週間に1度しかかえって来れないのだ。同じような家、同じような少年、ヴェラはそれに気づいたから女になることでレオポルドを独占しようとした。フランツはそれに気づいたから絶望して自殺するしかなかった。レオポルドは翌日、別の家に行って、前にフランツに漏らしたように「人を殺してしまった」と告白するのだろう。