美の祭典
2004/8/29
Fest der Schonheit - Olympia teil 2
1938年,ドイツ,97分
- 監督
- レニ・リーフェンシュタール
- 撮影
- ウィディ・ジールケ
- 音楽
- ヘルベルト・ヴィント
1936年、ナチ政権下で行われた第11回ベルリン・オリンピック、その様子を記録した公式映画『オリンピア』の第2部。自然の風景から始まり、続いて、選手村での選手たちのくつろいだ様子が映される。その後は体操、水泳、サッカー、馬術などの競技が映される。
第1部の『民族の祭典』とともにナチスのプロパガンダ映画であることは確かだが、この第2部ではそのプロパガンダ色は薄まり、ドイツ選手の活躍を讃えるという感じの内容になってくる。
この作品も基本的には第1部と同じく、オリンピックの記録とプロパガンダの狭間にある。ヒトラーの姿はまたもたびたび捉えられ、ナチス式の敬礼をする選手も登場する。そして、オリンピックを運営しているドイツ人たちの一部が軍服を着ているというのも印象的だ。オリンピックの映画であるにもかかわらず、この映画は強く戦争を意識させる。
一般的には第1部の『民族の祭典』のほうが強いプロパガンダであるといわれるが、この第2部のほうがイメージの上ではプロパガンダが表面化されていないだけに、いっそう強くひとつのメッセージを打ち出そうとしてるように見える。
まずこの『美の祭典』に取り上げられた競技では、ドイツ選手の活躍が目立つ。もちろん、ドイツが陸上にあまり強くなかったというだけの話だが、陸上と他の競技に分けたのはリーフェンシュタールの(あるいは彼女に支持するナチスの)意図によるものであり、恣意的なものである。第1部ではアメリカの強さが際立っていたが、この第2部ではドイツと、加えてイタリアと日本の強さが際立っている。そしてさらに、ここで取り上げられている競技が、射撃や馬術を含む戦争に直結するような競技であるのだ。そのような構成を見ていると、この映画は「ドイツは戦争に強い」ということをことさら強調しているように見えるのだ。
この思いは最後の競技で決定的になる。確か、ドイツ選手が優勝し、2位がアメリカ、3位がイタリアだったと思うのだが、ドイツ選手とイタリア選手はナチス式の敬礼をし、誇らしげに顔をあげるのに対して、2位のアメリカ選手はただ突っ立って、弱々しげな横顔をさらしているだけなのだ。
これらのイメージの積み重ねが観客を一種の「洗脳」に導く。表面に表れてこないそのような隠れたプロパガンダこそが恐ろしいのである。リーフェンシュタールはそのことに意識的ではなかったかもしれないが、これはどこから見てもプロパガンダ映画であるといわざるをえない。
もちろんプロパガンダ映画であるからと言って、映画のすべてが否定されるわけではない。70年前のオリンピックの記録としてはもちろん価値があるし、競技をする人々の肉体的な美しさという意味では『美の祭典』という名に値するだけのものがある。体操や飛び込みの選手が今のように難しい技を競うのではなく、単純な技のキレというか、美しさを競っているのもいいと思った。
今はスポーツもエンターテイメント化し、観客を楽しませなければならなくなっている。体操や飛び込みという競技はアートを競う競技であり、そこには芸術/美と、技術という2つの意味があったはずだ。しかし、芸術/美というものは判断が恣意的になるため、公平な評価を求めるスポーツの世界からは徐々に排除され、技術一辺倒になっていった。そのほうが観客が見ていて面白いからだ。
素朴とも映る70年前の映像を見ながら、そんなスポーツの変化について考えてみるのも面白い。