恋のエチュード
2004/9/25
Le Deux Anglaises et le Continent
1971年,フランス,132分
- 監督
- フランソワ・トリュフォー
- 原作
- アンリ=ピエール・ロシェ
- 脚本
- ジャン・グリュオー
- フランソワ・トリュフォー
- 撮影
- ネストール・アルメンドロス
- 音楽
- ジョルジュ・ドルリュー
- 出演
- ジャン=ピエール・レオ
- キカ・マーカム
- ステイシー・テンデター
- フィリップ・レオタール
パリに住む学生のクロードは英国から来た学生のマリアンヌと知り合う。2人は仲良くなり、マリアンヌは妹のミュリエルをクロードに会わせたいと言い出す。やがて英国に旅することになったクロードは姉妹の家の客となり、3人の間には微妙な空気が流れ始める。
パリとイギリスの田舎、2つの風景の中で展開されるトリュフォーらしい恋の行方は? 原作は『突然炎のごとく』と同じアンリ・ピエール・ロシェ。ロシェはこの2作しか作品を残していない。
煮え切らない男と女の恋、と言えばいかにもトリュフォーらしい主題である。しかし、情けない男の物語と言うよりはすれ違い続ける男女の物語という風情である。
トリュフォーの映画には言葉があふれているが、その言葉は実は何も語ってはおらず、多くを語っているのは映像や音楽や表情であったりする。この映画もその例に漏れず、上滑りする言葉とは隔絶したところで展開される心理劇が面白い。そしてそこで描かれるのは、すれ違い続ける男女ということで、いかにもな“悲恋”の物語になるかと思いきやそうはならない。彼らの心情に“悲恋”という感覚は浮かび上がってこない。彼らはすれ違ってしまうことを悲しんではいるが、どこかで当たり前のことのように受け取り、どこかで安心してしまっている。
そこにこの映画のポイントがあるのではないかと思う。ずばりこの映画は「すれ違い続けること」つまり「出会い損ねること」自体を映画のテーマにしているのではないかと思う。トリュフォーはその「出会い損ねること」こそが恋の本質だとでも言いたげなのである。
彼らがすれ違うのは、彼らのコミュニケーションがうまく言っていないとかいう理由ではなく、それが恋の必然だからである。あるいは彼らが演じている恋のゲームがそのようなゲームであるからである。彼らが演じている恋のゲームとはつまり、互いにその幻影を追い続けるゲームなのである。相手を求めているようで、実は相手に自分から発した幻影を投影し、その幻影を求めてしまっている。それが彼らの恋なのである。
しかし、それは果たして「彼らの」恋に過ぎないのだろうか? とトリュフォーは私たちに問う。恋とはそもそもそのようなものなのではないか? という問題を私たちに出すのだ。
その答えはもちろんわからないわけだが、この映画の中でクロードの母は恋とはそのようなものだと考えて行動している。だから彼女は息子が「遊ぶ」ことは歓迎するが、本気で恋することは進めない。なぜならば本気で恋するということはつまり、果てしなく幻影を追い続け、果てしなく出会い損ねるという迷宮に迷い込むだけだからだ。
そしてクロードもその迷宮に入り込むことを巧妙に避ける。そして、ミュリエルもアンヌもそこに行くことは出来なくなってしまう。しかし、クロードの母は死ぬ。そのことで彼の前には再び迷宮への扉が開き、彼は入るべきか否か迷うのだ。
しかし、彼がその迷宮に迷い込もうと迷い込むまいと、彼らが出会い損ね続けることに変わりは無い。トリュフォーは結果的に彼らが最後まで出会い損ねたという事実を記述するだけである。
それはつまり、「人は真に出会うことが出来るのか」という問いに対して答えることを拒否したと言うことだ。出会い損ねる彼らを描くことで、彼らは最後まで真に出会うことが出来なかった、ということを描くだけで、そこから先に進むことは無い。
しかし、果たしてその問いに答えなどあるのだろうか。そもそも「真に出会う」とはどういうことか。人と人が出会うとき、人は現実というスクリーンを通して相手に出会う。そのスクリーンを通さずに人と出会うなどということが果たして可能なのか。さらにいうならば、そもそもわれわれは私自身と真に出会うことは可能なのか?
われわれは作品の余韻に浸りながら、トリュフォーが用意した哲学的迷宮に迷い込んでいく。