家庭
2004/10/16
Domicile Conjugale
1990年,フランス,90分
- 監督
- フランソワ・トリュフォー
- 脚本
- フランソワ・トリュフォー
- クロード・ド・ジヴレー
- 撮影
- ネストール・アルメンドロス
- 音楽
- アントワーヌ・デュアメル
- 出演
- ジャン=ピエール・レオ
- クロード・ジャド
- ダニエル・チェカルディ
- クレール・デュアメル
- 松本弘子
- シルヴァーナ・ブラーシ
- ダニエル・ブーランジェ
- フランソワ・トリュフォー
アントワーヌ・ドワネルはクリスティーヌと結婚し、自分はアパートの中庭で花を染色するという商売をしていた。しかし、商売は失敗に終わり、アントワーヌは新たな就職先を探し、アメリカ人の会社で模型の船を操るという仕事にありついた。クリスティーヌの両親はいつものように温かく、すべてが順調に行くかのように思えたのだが…
トリュフォーの自伝的シリーズといわれる「ドワネル・シリーズ」の第4作。ドワネルの設定は26歳で(いつまで経っても童顔だが)、題名のとおり家庭を持った姿が描かれる。
映画はクリスティーヌの足だけのカットで始まる。クリスティーヌの足はりんごを買ったりしながら通りを行ったり来たりしてから建物に入ってようやく映画は始まるのだ。その後もひな壇に登ったクリスティーヌの足をアントワーヌがさすったりとどうも足フェチの匂いがするが、この足フェチの傾向は他の作品にも出てきた気がする。女性の足に、そしてストッキングにトリュフォーはどうも拘泥しているようだ。
それはさておき、映画のほうはといえば相変わらずのドワネルなのである。『大人は判ってくれない』の不幸な少年はトリュフォーのつらい少年時代の反映であったのだと思うが、果たしてこのあたりになると自伝的といえるのかどうか。この映画のドワネルは相変わらず不幸を背負い込む。映画の序盤ではいかにも幸福で、このまま順調に人生が進んで行ってもよさそうなものなのだが、ドワネルはどうも自ら不幸の種をせっせと仕入れてしまうようなのだ。
現実のトリュフォーがどうだったのかはわからないが、彼の心の中には常にその不幸の種が根を下ろしていたのではないかと思う。どんなに幸福であっても、その幸福は脆くも崩れ去り、不幸のどん底に突き落とされるのではないかという恐れがあったのではないかと思うのだ。
そのような思いのはん映画として表れるのがこのドワネルである。彼が自ら不幸へと飛び込んで行ってしまうのは、トリュフォー自身が不幸になることに対する予防線なのではないだろうか。それは他人によって不幸のされるよりも自ら不幸を背負い込むことを選ぶということ。ドワネルは極度に他人を恐れ、自分が傷つけられることを恐れている。
映画の中で取るに足らないことのように描かれている友人に金を貸すというエピソードが、実はその「他人を恐れる」ということを端的にあらわしているのではないか。アントワーヌは道端であった友人にほいと金を貸してしまう。そして次にあったときに、「彼には借りがある」あるとまるで自分が金を借りているかのように彼から隠れようとし、見つかってまた金を無心されると安堵したようにまた貸してしまい、そしてそれがもう一度繰り返される。彼はそのようにして金を貸すことでその友人と接触する恐怖を逃れているのではないだろうか。(このような中心的ではないエピソードによって重要なことを語ろうとするのがトリュフォーの傾向なのかもしれない)
しかしそれでいて、アントワーヌは孤独を恐れもするのだ。ひとりで食事をすることに耐えられず、食卓の沈黙に耐えられない。他者を恐れながら、同時に孤独を恐れる。そのような矛盾を抱えたアントワーヌが不幸を背負い込んでしまうのは必然であり、トリュフォーはそのことをわかっていて彼にそのような矛盾を抱えさせているのだ。そして彼自身もまったく同じ矛盾を抱えているのだろう。
そしてその矛盾は解消することはないだろうが、それでも何とかやっていくしかないのだ。トリュフォーはこの作品によって自分にそう語りかけているようにも思える。
全体としては、日本や日本人の描き方には難がある(とトリュフォー自身も認めている)けれど、作品が語らんとしていることは非常に面白く、わかりやすい。それは矛盾や問題をいくら孕んでいても、常に全体がトリュフォーの優しさに包まれているからではないだろうか。