野性の少年
2004/12/6
L'Enfant Sauvage
1969年,フランス,86分
- 監督
- フランソワ・トリュフォー
- 脚本
- フランソワ・トリュフォー
- ジャン・グリュオー
- 撮影
- ネストール・アルメンドロス
- 音楽
- アントワーヌ・デュアメル
- 出演
- ジャン=ピエール・カルゴル
- フランソワ・トリュフォー
- ジャン・ダステ
- フランソワーズ・セーニエ
18世紀の末、森できのこを採っていた夫人に発見されて一人の少年、まったく文明を経験しないまま育ったその少年は“アヴァロンの野生児”と名づけられる。その少年に興味を持ったパリの教育学者イタール博士が彼を引き取り、自ら教育を施そうとする。
フランスで実際にあった“アヴァロンの野生児”のエピソードをフランソワ・トリュフォーが自ら主演して映画化した作品。
まず、基本的に恋愛が物語の中心のどこかにあるという印象のトリュフォーの作品としては異質だという印象がある。主人公は12歳くらいまで野生で育った少年で、その少年がいわゆる文明になじめるかどうかというのが問題になっているのだ。
トリュフォーを意識しなければ、よくある映画のようにも見える。しかし、誰の作品だったとしても、問題になるのはこのような映画を作ることにどのような意味があるのかということだ。“野性の少年”という特殊な素材を扱うこと、それがジャーナリスティックな興味以上のどのような興味を描き立て、どのように観客に伝えようとしているのか、それが問題になるのだと思う。
トリュフォーは結局のところやはり“愛”について語っている。それはイタール博士とマダム・ゲリンがヴィクトールに注ぐ愛であり、それはおそらく親が子供に注ぐ愛である。
映画を必ずしも作家に結びつける必要はないのだが、この映画を観ると、どうしても『大人は判ってくれない』と結び付けたくなってくる『大人は判ってくれない』のアントワーヌもこのヴィクトールも親から見離された存在である。アントワーヌには両親がいるが、両親の中が悪く、アントワーヌはいつも放って置かれている。そして最後には両親に見放されてしまうのだ。 この物語はつまりこの『野性の少年』と逆の物語、あるいは「見捨てられた少年」の物語の別バージョンである。見捨てられていく少年と、見守られていく少年。
この『野性の少年』は自分自身も「見捨てられた少年」だと考えていたトリュフォーが望んでいたことが描かれているのではないかと思う。ヴィクトールのように温かく見守られ、教えられたいと望んでいたのではないか。
「野性の少年」をこのように「文明化」することの是非や、18世紀の人々の彼に対する態度が問われることがないのは、トリュフォーがこの物語を歴史や事件としてではなく、個人的な物語を投影する対象として扱っているからではないだろうか。この映画は実話がもとになっているが、そのようにする理由はただそのほうが観客にとって説得力があるからというだけで、それ以上の理由はないような気がする。
そのあたりが同じような題材を扱った映画と一線を画す部分である。結局、何を撮ってもトリュフォーはトリュフォーで、「愛」を求め続ける男を描くしかないということでもあるのだと思う。
「野性の少年をどうするか」ではなく「自分が野性の少年だったらどうか」という視点でこの映画を観てみると、トリュフォーの言わんとしていることがわかるし、それに対する賛否を考えることも出来る。そしてそうしなければこの映画にはまったく見所がなくなってしまう。