ダイヤルMを廻せ!
2005/2/9
Dial M for Murder
1954年,アメリカ,105分
- 監督
- アルフレッド・ヒッチコック
- 原作
- フレデリック・ノット
- 脚本
- フレデリック・ノット
- 撮影
- ロバート・バークス
- 音楽
- ディミトリ・ティオムキン
- 出演
- グレイス・ケリー
- レイ・ミランド
- ロバート・カミングス
- アンソニー・ドーソン
- ジョン・ウィリアムズ
元テニス・プレイヤーのトニーの妻のマーゴは元恋人で推理作家のマークに彼からの手紙が盗まれ、それをネタに脅迫状が来たということを告げるが、ふたりはそのことはトニーには気づかれていないと考えていた。一方のトニーは車を買いたいと言って一人の男を家に呼ぶ。そして、おもむろに妻が男から受け取った手紙を自分が盗んだということを語り始める…
フレデリック・ノットの舞台劇をヒッチコックが映画化。複雑なトリックが仕掛けられ、本格派の推理小説の味わいがある。
この作品は、私にはすごく「ヒッチコックらしい」という印象があったのだが、それはどのあたりから来るのか。実は一般的に「ヒッチコックらしい」ということは非常に難しいのではないかと思う。物語で言えば、一人の男(たとえばジェームズ・スチュワート)が無実の罪を着せられ、金髪の美女(たとえばキム・ノヴァク)の助けを借りて、その罪を晴らすというのがひとつの典型だろうが、他方で『サイコ』や『鳥』のようなスリラー然とした作品もある。細かく分析していくには様々な方法があり、様々な本も書かれているから、ある程度ここにまとめることは出来るのだろうが、今私がしたいのは「ヒッチコックらしい」という“私の”印象を分析することだ。
ヒッチコックが精神分析的な手法を多用していることはよく知られている。特にこの作品は「盗まれた手紙」が映画の鍵となることから、エドガー・アラン・ポーの「盗まれた手紙」を題材としたジャック・ラカンの論旨にあわせて読まれることも多い。その詳しいところはスラヴォイ・ジジェクなどを読んでもらうとして、ここで私が思うのは、ヒッチコックの精神分析的手法というのが、見るわれわれの側にも影響を及ぼすのではないかということだ。
私は思えば物心ついた頃からヒッチコックの映画やヒッチコック劇場を見ていた。実際のところどれがどれだか、つまりどの記憶がどの作品のものだかは覚えていないのだが、ヒッチコックの作品を見るたびにどこかでその不定形の記憶にアクセスしているような気がするのだ。そして、昔見た記憶と今見ているものがどこかつながって、“ピン”と来るところがあるのだ。
この作品を見ていて思ったのは「青ざめた表情」である。ヒッチコックの作品の特徴のひとつとして、何か衝撃を受けたり、驚いたりした人の表情を正面から捉えるというモノがある。そのときのその人の表情が非常に印象的なわけだが、その表情が私の中に「青ざめた表情」というモノとして残っていることに気づいたのだ。それは単にその顔が「青ざめた表情」であるということだけではなく、私が「青ざめた表情」という言葉からイメージするのがヒッチコックのこの表情であるということだ。
そんな個人的な体験を話しても仕方がないといえば仕方がないのだが、ようはヒッチコックの映画はそのようにしてすでに内在化してしまっているということだ。もちろんプロットは面白く、謎解きも面白く、登場人物も魅力的である。そして、ヒッチコック探しも楽しい。しかし、そのすべてがどこかで当たり前のことになっており、ヒッチコックの映画を見るということがすでに「ヒッチコックらしさ」を確認するという作業になってしまっているという面があるということだ。
もちろんこれは一般的な話ではなく、私の個人的な話だが、そのように見てしまうがために、ヒッチコックを簡単に論ずることが出来ない。それこそヒッチコックの精神分析的手法を借りて、自分をある程度客観視して見なければ、うまく論ずることが出来ないような気がするのだ。それは大変な作業だから、とりあえず棚上げにして、根本的にどういうことなのかということを考えてみた。
まったく作品についての批評ではなくなってしまったが、ヒッチコックの作品を論ずるということは往々にして、作品論から離れて行ってしまうもののようだと思う。