まぼろし
2005/2/15
Sous le Sable
2001年,フランス,95分
- 監督
- フランソワ・オゾン
- 脚本
- フランソワ・オゾン
- エマニュエル・ベルンエイム
- マリナ・ドゥ・ヴァン
- マルシア・ロマーノ
- 撮影
- アントワーヌ・エベルレジャンヌ・ラポワリー
- 音楽
- フィリップ・ロンビ
- 出演
- シャーロット・ランプリング
- ブリュノ・クレメール
- ジャック・ノロ
- アレクサンドラ・スチュワルト
- ピエール・ヴェルニエ
- アンドレ・タンジー
待ちかねたバカンスで海辺の別荘にやってきたマリーとジャンの夫婦、ふたりは50代くらい、子供はいない。翌朝、ふたりは浜辺へ出かけ、マリーが日光浴をしながら転寝をし、目を覚ますとジャンがいなかった。最初はそれほど気にしなかったのだが、徐々に不安が募り、近くの浜のビーチ・パトロールに助けを求め、ヘリコプターまで出動するが、ジャンは見つからなかった…
カルト的な作品を撮ってきたフランソワ・オゾンがしっとりと大人の愛を描いた作品。オゾンだからもちろん普通の物語で終わるわけはないのだが、それでも、奇抜さは極力抑えられている。
フランソワ・オゾンというとなんだかカルト的な作品とか、普通とは違う奇抜さがどこかにあったりとかという印象がどうにも付きまとう気がするが、この作品はそのような作品の表情を剥ぎ取った生のフランソワ・オゾンが感じられるような気がする。
この映画は非常にシンプルで、描いているのは“死”であり、映画の目的は観客を“怖がらせる”ことである。ただそれだけのために作られた映画である。
そして、そのことを考えてフランソワ・オゾンの作品群を思い起こしてみると、どの作品も常に“死”と“恐怖”を描いてきたことに思い至る。サスペンス・ホラーといえる『クリミナル・ラヴァーズ』はもちろんのこと、笑いの要素が強い『ホームドラマ』や『8人の女たち』にも常に“死”と“恐怖”がまとわりついている。フランソワ・オゾンは“死”を“恐怖”するという人間の避けがたい感情をひたすら描き続けているということが出来るだろう。
そんな中、この作品が描いているのは「死を受け入れること」の難しさである。“死”の“恐怖”というときに、まず思い起こされるのは自分自身の死であるが、本当に恐ろしいのは自分自身の死よりも自分にとってかけがえのないものの死である。自分の死というのが恐ろしいのは、ほとんどが肉体的な苦しみへの恐怖だが、自分にとってかけがえのないものの死の場合には、その死が起きたあとの世界を想像することができないという絶望的な苦しみが予期されるからだ。
だから、自分にかけがえのないものの死をいかに受け入れるかという問題は非常に重要な問題である。多くの場合、人はそのかけがえのない人の「肉体的な死」は受け入れつつ「象徴的な死」は受け入れないという戦略をとって自己防衛をする。つまり「自分の心の中にいる」とか「天国から見守ってくれる」ということを言い、「あの人が生きていたらどうするだろうか」と考えることによって、その故人を自分に内在化することで「象徴的な死」を拒否するわけだ。
これは、その視が受け入れがたいことによって引き起こされた狂気ではない。そのような「象徴的な死」を拒否するという身振り自体は自己防衛の本能から来る無意識的なものではあるが、それを実際に駆動する(その故人が死んでいないことにして考える)こと自体は意識的なものである。それは、この映画の主人公であるマリーニも当てはまる。ジャンがマリーの前に現れるのは彼女がそれを望んだときである。ほとんどの場合は、マリーがジャンを呼び出す身振り(首を軽く振る)をカメラはしっかりと捉えており、カメラもそのマリーの動きに同調する。つまり、マリーは必要なときにジャンを呼び出して、ジャンがいたときと同じようにジャンの存在を感じようとしているのだ。
しかし、一度だけ、意図的かどうか微妙な場面がある。それは、マリーがヴァンサンからの留守電を聞く場面だ。マリーがその留守電を聞きクスリと笑ったところでジャンが不意に表れる。この場面だけはマリーの罪悪感が自分を罰しようとするために無意識にジャンを呼び出したのではないかと思う。
が、マリーはどこかでジャンの「象徴的な死」を受け入れなければならないということをわかっているのだ。わかって入るが出来ない。その状態はまさに狂気の一歩手前ということになるが、マリーは決してその一歩を踏み出すことはないだろう。なぜならば、観客はマリーが狂気に陥ることを“怖がっている”からだ。マリーが置かれた状況は観客の誰もが陥る可能性がある未知の恐ろしい状況である。その状況でマリーが狂気に陥ってしまっては(つまり、他の人にとって象徴的に死んでしまっては)恐怖は継続しないのだ。
フランソワ・オゾンの職人的なうまさは、観客にマリーが完全に正気に帰る可能性を感じさせながら、しかし彼女をずっと狂気の一歩手前に踏みとどまらせるというやり方にある。オゾン独特の映像美を感じる無言のショットによって作られる「間」がそのような期待と恐れを観客から引き出して、観客を映画の世界にぐんぐんと引き込んで行く。