姿なき脅迫
2005/6/19
Someone's Watching Me !
1978年,アメリカ,99分
- 監督
- ジョン・カーペンター
- 脚本
- ジョン・カーペンター
- 撮影
- ロバート・ハウザー
- 音楽
- ハリー・サックマン
- 出演
- ローレン・ハットン
- エイドリアン・バーボー
- デヴィッド・バーニー
- チャールズ・サイファーズ
ニューヨークからロスへ引っ越してきたTVディレクターのリー・マイケルズは高級マンションに部屋を借り、新しい生活に胸躍らせていた。しかし、その彼女に向かいのマンションに住む覗き魔が目をつけたのだ。彼女の出社初日に怪しげな電話をかけたその覗き魔の行動は日に日にエスカレートして行く…
ジョン・カーペンターがTV用に撮ったサスペンスドラマ。見えない恐怖を描くといういかにもカーペンターらしい設定と演出でテレビでも充分な怖さを表現しているが、スタンダードサイズの画面が今ひとつ迫力をそいでしまったか。
TV向きだけあって非常にオーソドックスなサスペンスという印象だ。『姿なき脅迫』という邦題がピタリと来るスリラーで、まさに見えない恐怖として存在する覗き魔の視線が怖い。このいつどこから襲ってくるかわからない恐怖というのはカーペンターの得意中の得意なわけで、いつもどこか後ろが不安で何度も振り返ってしまう感じを演出する。その典型はもちろん『ハロウィン』であり、この作品の覗き魔は『ハロウィン』のブギーマンのプロトタイプということも出来るのかもしれない。
とくに類似点を感じるのは、この作品と『ハロウィン』の両方に使われている犯人の視線である。『ハロウィン』はブギーマンのマスクをかぶった少年の視線が映画の冒頭に効果的に使われており、この『姿なき脅迫』でも同じような犯人の主観的な視線が効果的に使われている。
カメラをある人物の視線と一致させるということは、一般的には観客をその視線を持つ人物と一致させ、その人物に感情移入させるものだと考えられている。だから、カーペンターのこの手法は殺人犯に観客を感情移入させようとするというある意味では“卑怯な”やり方だといわれることもある。しかし、この作品や『ハロウィン』の映像を見ていると、そうではないのではないかと思えてくる。観客は自分が殺人犯として行動する経験をするよりはむしろ、その視線に捉えられる犠牲者を見守るものの気持ちになる。その犠牲者の気持ちになって、何とかその視線から逃れてくれと願う気持ちを強く持つのだ。それはまさに背後から襲われることの恐怖である。
そのような意味で、この作品はサスペンスとしてうまく出来た作品であるわけだが、その恐怖、いつどこから襲ってくるかわからない恐怖を演出するために重要なのは犠牲者の限定された視線をいかに表現するかということであるのではないかと思う。映画のフレームはその犠牲者の視線を再現し、そこに何かが見えるのではないかと観客は目を凝らす。そして、ある瞬間そのフレームの端を何かがかすめるのだが、観客はそれをはっきりと見ることは出来ず、それが何だったのかわらないという恐怖が増長される。
それがこの作品で成功しているのはリーとソフィーがレストランで食事をしているシーンで、ソフィーが先に席を立ったあとリーのところに白ワインが運ばれてきて、「カウンターのお客様からです」と告げられる。もちろんその時にはカウンターに人影はないのだが、実はそのシーンの始めにふたりの背後にバーカウンターが映っているのだ。観客はそのカウンターを視線の先で捉えているが、いったいどのような人物が座っていたのかという記憶はほとんどないのだ。
このシーンは成功しているが、その他のシーン(たとえば序盤にリーの部屋から人影が逃げ出すシーン)では今ひとつ成功していないのは、この作品がスタンダードサイズで作られているからではないかと思う。ジョン・カーペンターのいつものサイズであるシネマスコープなら画面の両端にはあまり観客の視線が行かず、そこを何かを通過させることで、観客を驚かすことが出来るのだが、スタンダードではそのような効果が狙えない。
普段はあまり画面のサイズの違いが映画に違いを生むとは考えないのだが、この作品をみると、カーペンターというのはシネマスコープの作家なのだという印象を強く持った。