リオ・ブラボー
2005/9/8
Rio Bravo
1959年,アメリカ,135分
- 監督
- ハワード・ホークス
- 原作
- B・H・マッキャンベル
- 脚本
- ジュールス・ファースマン
- 撮影
- ラッセル・ハーラン
- 音楽
- ディミトリ・ディオムキン
- 出演
- ジョン・ウェイン
- ディーン・マーティン
- リッキー・ネルソン
- アンジー・ディキンソン
- ウォルター・ブレナン
- ウォード・ボンド
とある町の保安官チャンスは酒場でのゴタゴタでひとりの男を殺したジョーを逮捕した。そしてそれに巻き込まれていた酔っ払いのデュードを保安官助手にして復習しに来るであろうジョーの兄ネイサンの一味を迎え撃つ構えをする。しかし、チャンスの味方はそのデュードと足の悪い年寄りのスタンピーだけ…
ハワード・ホークスとジョン・ウェインの名コンビによる痛快西部劇。アクションに派手さはないが、物語展開とキャラクターの面白さで魅せる娯楽映画の傑作。
この映画は長く、しかもひとつの町という非常に狭い空間で展開される。そういう場合、物語展開に変化が乏しく、冗長になりがちなのだが、この作品は空間を限定したことによって物語が密になり、複雑さを持つようになって面白さを増している。主な登場人物といえるのは5・6人程度、しかしその一人一人のキャラクターがしっかりと作られ、その間の関係性がじっくりと描かれるている。
主人公は基本的にはジョン・ウェイン演じるチャンスだが、いわゆる西部劇のイメージのひとりのヒーローが活躍するという形ではなく、その仲間たちデュード、スタンピー、コロラドもヒーローとして活躍し、チャンスはむしろそれを補助する役目に回っている。
この語り方は非常に巧妙だ。主人公たちは閉ざされた場所で、敵に囲まれ、助けを待ちながら、とにかくその窮地を打破しようともがく。その内部では人間臭いドラマが展開され、恋愛まがいのものもある。観客は彼ら4人ないし5人の仲間を見守り、応援し、それぞれのキャラクターと友情にも似た関係を結ぶ。ちっともヒーロー臭くなく、むしろ人間臭い彼らにいつからはまり込んでしまったのか、それに気づかないままその関係に引き込まれてしまうのだ。
その要因のひとつには、敵と味方の境界がはっきりしているということがある。味方は味方で敵は敵、敵は外からやってきて、味方はそれを阻止する。裏切りも誘惑もなく、スパイもいない。その単純な構造が観客の没入を容易にするのだろう。
このような閉じ込められた人々の抵抗劇で思い出されるのはジョン・カーペンター監督の『要塞警察』だ(ジョン・カーペンターは『リオ・ブラボー』をエモーショナルな衝撃を受けた作品といい、『要塞警察』ではこの『リオ・ブラボー』のビールのグラスに血が滴り落ちるシーンにオマージュを捧げ、さらには編集のクレジットにジョン・T・チャンスというジョン・ウェインが演じた役名を偽名として使っている)。『要塞警察』はこの『リオ・ブラボー』の構図を極端に縮小したものであり、その閉じ込められた人々はジョン・カーペンターの映画制作のテーマのひとつでもある。そして、この『リオ・ブラボー』を見ると、そのコンセプトが非常にアメリカ的なものであるということがわかる。開拓期の人々はひとつの町をある種の砦としてインディアンやギャングという外敵(エイリアン)からそれを防衛してきた(この町のホテルはそれを象徴するように“ホテル・アラモ”という名がつけられている)。その開拓者の精神をアメリカの(アングロサクソン系の)人々は今も受け継いでいるのだろう。ジョン・カーペンターはその精神を受け継ぎ、アメリカ的なものを受け継いだ。外敵はインディアンやギャングから無軌道な犯罪者や異星人に変わったが、それもまたエイリアンであることに違いはない。
そしてその傾向がアメリカに強いのは確かだが、同時に現代においては世界に普遍的な感覚であるということもいえる。だから私たちも容易にその世界に踏み込んで行くことが出来るのだ。そしてそれは昔から普遍的な感覚であったというよりはアメリカ的なものが世界に敷衍したものなのではないかと私は思う。アメリカは外敵から砦を守ると、逆にその敵を囲い込み、構造を逆転させるということを繰り返してきた。その境界のはっきりした善悪に言論的な考え方、それがまさにアメリカ的なものであり、現代的なものであり、この映画にも流れる精神なのである。その是非はともかくとして、この作品はその精神をあまりに端的に表現していることで私たちの感覚にスッと馴染んでしまう。
この映画は非常に痛快で面白い。単純に楽しんで見られることが出来る傑作だ。もちろんそれだけで映画を見てもいい。しかし、現代的な視点から、そのような捉え方が出来ることを考えると、また別の楽しみ方が出来るのではないかと思う。