エル・ドラド
2005/9/15
El Dorado
1966年,アメリカ,126分
- 監督
- ハワード・ホークス
- 原作
- ハリー・ピーター・ブラウン
- 脚本
- リー・ブラケット
- 撮影
- ハロルド・ロッソン
- 音楽
- ネルソン・リドル
- 出演
- ジョン・ウェイン
- ロバート・ミッチャム
- ジェームズ・カーン
- アーサー・ハニカット
- シャーリーン・ホルト
- エドワード・アズナー
ガンマンのコールはある男に雇われて旧知の町エル・ドラドにやってくる。そこで旧友の保安官JPに事情を聞くと、雇い主のジェイソンはJPを亡き者にしようとたくらんでいるらしいことがわかる。そこでコールはジェイソンに話を断りに行くが、その帰りジェイソンに狙われているマクドナルド一家の息子の一人を撃ってしまう…
ハワード・ホークスとジョン・ウェインが組んだ典型的な西部劇。まさに娯楽アクション大作といった感じ。
宿場町で善玉と悪玉が対峙して最終的には撃ちあいをする。これぞまさに西部劇、娯楽映画の王道を行く西部劇の王道である。そして、この映画はそんな西部劇のまさに王道。ドンドンパチパチやって善玉が悪玉をやっつけて目出度し目出度しとなるわけだ。
しかし、そんなワン・パターンの西部劇が何故面白いのか。実際、私はそんなワン・パターンの西部劇のどこが面白いのかとずっと思っていた。西部劇を何本か見ると、そのほとんどが同じようなプロットで、ヒーローが活躍して悪玉をやっつけるというまったくのワン・パターン、プロットを追う楽しみなどほとんどないに等しかったのだ。
でも、ホークスは違う。ホークスの西部劇は確かにプロットはそんな西部劇のワン・パターンを踏襲しているのだが、それでもこの2時間の作品に退屈する事はないし、ワン・パターンに辟易することもない。それは、この作品の本当の面白さは細部に宿っているからだ。主プロットは確かに単純でわかりやすいものだし、最後にはヒーローとヒロインが結ばれることでなんとなく結末がついたような気にさせるという点においてもハリウッドの典型を開くまで踏襲しているわけだが、その種プロットの脇に張り巡らされた数々のサブ・プロットに面白さが隠されているのだ。
たとえば、その中でもいちばん大きなサブ・プロットとなるのはミシシッピである。ミシシッピは偶然コールと知り合っただけだが、ナイフで亡き友人の敵討ちを続けてきたという彼の物語、そして彼は銃がからきしダメだという要素、そしてまた彼がよそ者であるということそのものなどが主プロットに絶妙に絡みついてくる。主プロットの展開は単純なのだが、それが単純に思い通りに進んで行くのには、常にサブプロットの伏線が作用しているのだ。途中で買った散弾銃が最後に面白い結果を生み、コールがジョーイに撃たれた傷が最後まで尾を引く。
出てくるところを狙われるのを防ぐため相手に先導させるというのがあとで反転され、手が不自由で弾が込められないというのも繰り返される。
これらの反転、繰り返し、変形の連なりによって観客はこの作品世界全体を何か手中に収めたような感覚になるのではないか。これがこうなってあれがああなってというパズルのような構造が手に取るようにわかることの快感、この映画は単純なアクション映画のようでありながら、そのような知的刺激にも満ちている。観客はアクションを楽しみながら、それも含めた全体を見渡せる立場にいることをも楽しむ。それこそがホークスの作る完全なる娯楽映画の完全なる楽しみであり、同じような作品を何本も見ても決して飽きないからくりなのだと思う。
実際にこの作品は『リオ・ブラボー』とあまりに似ている。保安官側のキャラクターの構成もまったく同じと言っていいし、犯人を捕まえて判事を待ち、そのあいだ篭城するという設定も一緒だ。ジョン・ウェインのロマンスも、準主役(ここではミッチャム、『リオ・ブラボー』ではディーン・マーティン)が女に振られて酒に溺れるという設定まで一緒である。
しかし、この作品はまったく同じように見える『リオ・ブラボー』を裏切りもするのである。途中で違う展開に盛って行くことで、同じだと安心していた観客を驚かせ、再び映画に引き込む。これもまた、ホークスなりの観客の楽しませ方のひとつなのかもしれない。ひとつの作品を完全な娯楽映画として仕上げて観客を楽しませるとともに、他の作品と関連付けることで映画にそれ以上のものを求める観客も楽しませる。
これこそがヌーヴェル・バーグがハワード・ホークスを積極的に再評価することにつながるホークスの作家主義的な要素なのかもしれない。