夫婦
2005/9/29
1953年,日本,87分
- 監督
- 成瀬巳喜男
- 脚本
- 井手俊郎
- 水木洋子
- 撮影
- 中井朝一
- 音楽
- 斎藤一郎
- 出演
- 上原謙
- 杉葉子
- 三國連太郎
- 小林桂樹
- 岡田茉莉子
- 藤原釜足
- 滝花久子
- 田代百合子
- 三好栄子
- 中北千枝子
嫁入りで家を離れていたうなぎ屋の娘菊子は夫の伊作の転勤で東京に戻ってくることになった。なかなか部屋が見付からず、とりあえず実家に厄介になるが、兄の茂吉が嫁をとることに決まり、家を出なければならなくなった。困った伊作たちは最近妻をなくして一人住まいの同僚武村に部屋を借りることにした…
『めし』の姉妹篇として企画され、当初は『めし』と同じく原節子がキャスティングされていたが、スケジュールの都合で杉葉子となったという作品。『めし』『妻』とあわせて夫婦三部作とも呼ばれる。
成瀬作品で上原謙はいつも情けない男である。基本的に生活力があまりなく、妻とふたりの生活でいっぱいいっぱい、疑り深く、そのくせ自分は浮気への色気を見せる。この作品の上原謙も基本的にそのキャラクターを踏襲している。地方転勤から東京に戻ってくるが手ごろな部屋が見付からず妻の実家に居候、それが無理になると同僚の家を借りる。妻はふたりの新居を夢見るのだが、夫の生活力ではそれもかなわない。成瀬はそのところを、杉葉子演じる菊子が建売住宅の広告を立ち止まって見ながら、チラシのようなものを渡されるといそいそとそこを離れるという短いシーンによって表現している。妻は夫に不満なわけではなく、ふたりで幸せな生活を送りたいだけなのだと。
それに対して夫は、自分の情けなさを棚に上げて妻の態度が気に入らないとすねてしまう。間借りすることになった武村と妻が怪しいと勝手に考えて、しかしそのことを直接妻には言わず、傲慢な態度を取る。そして若い娘に色気を出し、そのことを武村に咎められてさらにふさぎこむ。いつも繰り返されるこの構図、これは家庭に閉じ込められた妻の不幸を描く成瀬らしい“女性映画”の要素である。そして、武村という外部からの闖入者(この作品では実際は夫婦の方が闖入者なのだが夫婦の視点から見れば武村が闖入者である)が夫婦関係を変化させるという構造を持つ。
この作品が『めし』の姉妹編であるというのは、『めし』が夫婦の間に妻の姪という別の“女”が闖入してきたのに対し、この『夫婦』では武村といいう別の“男”が闖入してくるという点で対比が出来るからだろう。『めし』では姪の闖入によって妻が自分自身の“女”を再発見したわけだが、この『夫婦』では武村の闖入によって夫が妻の“女”を再発見するのだ。映画の中盤で菊子を訪ねてきた友人が夫が自分のことをもう女としてみていない語るシーンが挟まれるのも、伊作の浮気を予感させると同時に夫婦関係の変化を暗示してもいる。
見方を変えればそのような関係に変化してしまいそうな夫婦を闖入者が押し戻したと考えることも出来るのだ。闖入者によって夫婦関係が崩れるのか、それとも互いを見直して新たな関係を築くのかはその夫婦によるわけだが、この頃の成瀬は夫婦が互いを見つめなおし、関係を修復するというパターンを選択することが多かった。それはこれらの作品が夫婦の関係における“女性”を描いているからだ。妻という牢獄から解放されることで自由な女性になるという女性像はこの頃の成瀬の中にはまだないのかもしれない。
この作品は『夫婦』と名づけられているだけあって、妻を描いただけの作品ではなく、夫をも描こうとしている。上原謙は情けない男として登場するが、“情けない男”という単純化されたキャラクターではなく、苦悩を抱える人間としても表れる。それがもっとも顕著に表れるのは歳も押し詰まって命じられた出張から帰ったシーンである。伊作はすでに掃除が始まっている会社で料亭にいる課長のところに行くように言われ、さらにその課長から部長のところにも回るように言われる。それからへとへとで帰ってくると、家では妻が妹弟を呼んで陽気に過ごしているのだ。それではふてくされるのも致し方ない。
ここで見えてくるのは、お互いが相手の気持ちを想像するという想像力の問題である。夫婦といえども他人である以上、一緒に暮らすには相手のことを理解しようと努める必要がある。それは主に夫がしなくてはならないことだが、妻もまた夫のことを考えなければならないのだ。それがうまく行かなくなると夫婦関係に亀裂が生まれる。そしてそれをあぶりだすのが外部からの闖入者なのである。 夫婦の間の亀裂とその修復、上原謙を主役の一人とする夫婦三部作(『めし』『夫婦』『妻』)で成瀬が描こうとしたのはそのようなことだと思う。